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奈良 [見仏]

 古今集的な美の現れが、京都であり、万葉の精神が、奈良・大和であるとすれば、私はむしろ、奈良・大和のほうに強く引かれるべきである。
しかし、画家としての私の仕事には、勿論、絵画として造型される対象という意味で、京都のほうが把握し易く感じられたのである。 日本の美の最も洗練された現れは、やはり京都である。
 万葉の歌は、長い年月の流れを超えて、現代の私達と同じような人間の生きた心を感じさせるが、大和路に遺る数知れぬ古墳からは、遠い世の鎮魂曲が重々しく流れ漂い、その幽明の底には解き難い謎が潜んでいる。古い寺や仏像には、日本的というよりも、甚だエキゾティックなものさえ感じる。
~略~
(初出「芸術新潮」昭和48年10月号) 「奈良にて」より部分抜粋 東山魁夷

名文で巡る国宝の観世音菩薩
白洲 正子 (著),広津 和郎 (著),岡倉 天心 (著), 亀井 勝一郎 (著), 和辻 哲郎 (著)
青草書房 (2007/06)
P157

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P168
奈良に行くと私の場合、何となく回るコースというものができている。特に何を見ようというのではなく、たまたまできた半日、一日の時間をつぶすというような場合のことであるが、何回となく行っている同じコースを辿ることになる。
久しく足を踏み入れていない場所へ行ったり、絶えてごぶさたしている仏像にお目にかかったりした方が楽しいに違いないのであるが、とかくそうしたことには気は動かないで、まあ、よく知っている慣れたところをひと回りして来ようという気になる。親戚回りしたり、贔屓のところへ顔を出すようなものである。
~中略~
 以上の、法隆寺―東大寺三月堂―唐招提寺金堂というのが、私のコースである。
なんの特色もないコースであるが、これで充分超一級品に触れた贅沢な気持ちになれるし、しかも絶対に裏切られることはないのである。
なぜなら、自分がそこに足を運ぶだけのことであり、格別どの仏像を見るというわけのものではなく、世にも贅沢なものの置かれてある世にも贅沢な空気に触れるだけのことである。
~中略~
しかも、やはり感動はその度に新しいのである。相手が一級品中の一級品であるゆえんであろうか。
(初出「文芸春秋」昭和46年4月号)
「東大寺三月堂」より部分抜粋
井上靖


 室町期における大和は、ほとんどが興福寺その他奈良の諸大寺の所領で、つまりは寺が大名であるという特殊な国である。
もっとも室町の世もみだれるにおよんで、興福寺の所領もあやしくなり、その所領管理をしていた僧兵隊長の家である筒井氏がのしあがっててきて、やがては大名面(ずら)をするに至るのだが、その筒井氏の本拠も奈良の町にあった。
要するに、いまの奈良市に物資が集中し、他に町というものは存在しなかった。
 繰りかえすようだが、奈良という町こそ中世の座の経済の中心であり、中世的な商品経済の中心でもあったし、また寺に仕える職人たちが集団的に住んでいる場所でもあった。

街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)
P47

 
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