自利・利他の教え [宗教]
「それ釈教は浩汗(こうかん)にして際(きは)なく、涯(かぎり)なし。一言にしてこれを弊(つく)せば、ただ二利あり。
常楽の果を期するは自利なり。苦空の因を済(すく)ふは利他なり。空しく常楽を願へども得ず。徒(いたずら)に抜苦を計れどもまた難し」
(弘法大師空海「請来目録」)
【現代語訳 およそ釈尊の教えは途方もなく浩(ひろ)く、限りなくはてしないものです。一言でつくせば、ただ自利・利他の二つの利益にあります。 永遠の生命と、そこに生きるよろこびを願い求めるのが自利です。そして人間苦と執着の迷いから救うのが利他です。むなしく自利を願っても、得ることが出来ません。いたずらに利他をはかっても、また容易ではありません】
ボクは坊さん。
白川密成 (著)
ミシマ社 (2010/1/28)
P197
お悟りを体験した人が世間に暮らすことはそのまま「利他行」になる。当然その人は「慈悲」と「智慧」を放散するように撒き散らすはずである。本来はそのことが「利他」なのであり、べつにボランティアにいそしまなければならないということではなかったのだと思う。
禅的生活
玄侑 宗久 (著)
筑摩書房 (2003/12/9)
P150
人間の中には、奉仕を欲する性質がある。それゆえ、フランス人の騎士道は一つの奉仕であった。
(「格言と反省」から)
ゲーテ格言集
ゲーテ (著), 高橋 健二 (翻訳)
新潮社; 改版 (1952/6/27)
P25
学問のある人、金のある人、それはその人のみのものでない。その学問、その富の力というものは、ただ自分のために使うべきものではなくて、人のために使うべきものだろうと思う。
そうなると、ここにじっとしている訳にはいかぬ。外に出て働かなければならぬことになる。それで私は、どうしても宗教は政治家、金持、あるいは労働者ももちろんであるが、みなこの宗教をもって、自分のためでなく、人のために働かなければならぬものであるという具合に考えなければならぬと強調したいのである。
宗教だからといって、ただ個人の安心にのみ資すべきではなかろう。そんなことだけに安んじては、本当の菩薩行はできぬ。
自分はこれでいいというところから、街頭に出て来なければならぬ。そこによほど細心の注意が必要だろうと思う。
禅とは何か
鈴木 大拙
角川書店; 改訂版 (1999/03)
P251
P133
宗教は他を救うことが目的であると思われています。
しかしながら、仏教はさにあらず、です。まずもって自己が利せなければ他が利せない、という考えです。
それはいまも申しましたが、自分には限度があるからであります。限度のあるもので、どうして無限のものに立ち向かえるか。金を人に施すといっても、あり金を全部はたいてしまえば、こんどは自分は人から施してもらわねばならない立場となる。
それではなんにもならない。ここで忘れてならないことは、自分が肥えたから人に与える、のではなく、自分が肥えることによって、人も肥える、ということなのです。
P135
うっかりすると、宗教は、他を利することをもってその旗印とする傾向があります。しかしそれは長つづきしません。自利と利他のこの二つが、常に不離の関係にあるのでなければ、永遠性はないのです。
なぜ、いま禅なのか―「足る」を知れ!
立花 大亀 (著)
里文出版 (2011/3/15)
それにしても、自分の生活を、自分の精神を、肉体を壊してまで、他者につくすことは、果たして正しいことなのだろうか。
自利利他という、仏教の教えがあります。これは、自分を捧げつくしてまで、他人を利するものではない、という意味です。たしかに、それでは「自死利他」になってしまうかのうせいがあります。
百歳人生を生きるヒント
五木 寛之 (著)
日本経済新聞出版社 (2017/12/21)
P118
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