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修身とは克己 [倫理]

大学」に「古(いにしえ)の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、まずその家を斉(ととの)う。
その家を斉えんと欲する者は、まずその身を修む。
その身を修めんと欲する者は、まずその心を正しくす。
その心を正しくせんと欲する者は、まずその意を誠にす。
その意を誠にせんと欲する者は、まずその知るを致す。
知るを致すは物に格る にあり」
とあり、また「天子よりもって庶人に至るまで一にこれ皆身を修るをもって本となす」とあり、
治国、斉家、修身と列挙せることより見るも、自己がその意志の力により、自己の一身を支配することであると思う。
すなわち修身とは克己なることが本となって、肉体情欲のために心を乱さぬよう、心が主となって身体の動作または志の向く所を定め、整然として、順序正しく、方向を誤らぬよう、挙動の乱れぬよう、進み行く意であろうと思う。

修養
新渡戸 稲造 (著)
たちばな出版 (2002/07)
P24

修養 (タチバナ教養文庫)

修養 (タチバナ教養文庫)

  • 作者: 新渡戸 稲造
  • 出版社/メーカー: たちばな出版
  • 発売日: 2002/07/01
  • メディア: 新書



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「大学」に「いにしえの明徳を天下に明らかにしようと欲する者は、まずその国を治める。その国を治めようと欲する者は まずその家を斉(ととの)える。
その家を斉えようと欲する者はまずその身を修める。その身を修めようと欲する者はまずその心を正す。
その心を正しくしようと欲する者はまずその意を誠にする」とあり、要するにおのれの明徳を社会において発揮しようと思うならば、なによりも片寄った心の原因となる「意」をまことにすることにある。
この意について、朱子はわたくしごころの「私意」と説明しているが、藤樹はこの意が形成されるもとになるのが、「好悪の執滞」「是非の素定」「一切の将迎」「一毫(いちごう)の適莫(てきばく)」であり、これらが識らず知らずのうちに混ざりあって、日常生活のなかで習癖と化してしまう、と解き明かす。
たとえば、一切の将迎とは、すべて自分の意に沿うことのみを求めること、一毫の適莫とは、ささいなことで人にたいし親切・不親切の片寄ることである。

中江藤樹 人生百訓
中江 彰 (著)
致知出版社 (2007/6/1)
P189


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