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平素の修養があればこそ [人生]

 非常の時に身を処するのは、前述のごとく全く日々の平凡の心がけによる。春風に誘われ、三日見ぬ間に開く桜は、風に会うて狼狽して開くのでなく、前年の冬から、厳寒を凌(しの)いで蕾を養うたからである。
昔の武士が戦場に臨み、命がけの勝負をしたのは、平生、木刀をもって木像(でく)を相手に仕合し、鍛錬した結果である。平素の修養があればこそ、非常の時の覚悟が定まる。
 かかる時さこそ命の惜しからめ
     かねてなき身と思ひ捨てずば
 かねてとは、。すなわち日頃の意。日頃一身を捨てる覚悟があらばこそ、いよいよという時に心が迷わぬ。
世の人は、何か目立ったこと、非凡なこと、人を驚かすような、ドラマチックを喜ぶから、平凡なる日々の修養を軽視する風がある。しかし、これはむしろ未熟の思想であると思う。

修養
新渡戸 稲造 (著)
たちばな出版 (2002/07)
P33

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P34
 僕がここに修養法を説くに当たっても、我々が平凡なる日々の務めを尽くすに、必要な心がけを述ぶるを目的とするので、一躍して英雄豪傑の振る舞いをなし、むずかしいこと、世の喝采を受けることを目的とせぬ。
功名富貴は修養の目的とすべきものでない。
自ら省みていさぎよしとし、いかに貧乏しても、心のうちには満足し、いかに誹謗を受けても、自ら楽しみ、いかに逆境に陥っても、そのうちに幸福を感じ、感謝の念を持って世を渡ろうとする。それが、僕のここに説かんとする修養法の目的である。
 佐藤一斎翁の言に「およそ活物は養わざれば死す、心はすなわち我にあるの一大活物なり。もっとももって養わざるべからず。これを養うはいかん。理義のほか別方なきのみ」とある。
身を養うの食物は日々に三度要するごとく、理義の栄養物も間断なくこれを用いるの要あることは、少しなりともこのことに経験ある者の、よく知れることである。
日々刻々の修養は、これをなしておる間は、さほどにも思わぬが、それがだんだん集まり積もると、立派な人物を築き上げる。

P258
心配のなし溜めは役に立たぬが多い。しかし、災難に逢うたら、かくせんという大体の覚悟は役に立つ。
事に当たりて狼狽せぬようにするには、日ごろの用意がなければならぬ。
しかして、この用意が整うておるのは知力の貯蓄があるからである。
種々のことをたくさん覚えておれとの意にあらずして、活用し得る知力を蓄えよとの意である。

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P28
自己実現者の目標は、自己をみつけることであり、内なる真に従って人生を規定してしまうことにある。自己を定義することにこだわりすぎると、ごくせまい意味に限定した自己―自分で強み、弱み、得手、不得手だと思っていること―を基盤に未来を築いてしまう恐れがある。
中国の思想家なら、これでは自分の可能性のほんの一部しか見ていないことになると言うだろう。私たちは、特定のときと場所であらわれる限られた感情だけをもって自分の特徴だと思い込み、それが死ぬまで変わらないものと考えてしまう。人間性を画一的なものと見なしたとたん、自分の可能性をみずから限定することになる。
~中略~
 中国の思想家は、どの人もみんな複雑で、たえず変化する存在であることに早く気づけと説くに違いない。一人ひとりに、さまざまな、ときに相反する感情の傾向や、願望や、世界への反応の仕方がある。わたしたちの感情は、内にではなく外に目を向けることで引き出される。
世間のしがらみを断って瞑想したり旅に出たりしても養われない。日々の営み、つまり他者とかかわったり行動したりすることで実地に形づくられる。言いかえると、ありのままの自分だけが自分なのではない。いつでも積極的に自分自身をよりよい人間へと成長させることができる。

P95
心を修養しておけば、もっとぐらつきのないはるかに安定した場所に立ってものごとに反応できる。衝動や感情の揺れにかき乱されることなく、大局に注目し、なすべきことを知ることができる。どの反応が自分やまわりの人から最善の部分を引き出すかがわかる
~中略~
 孟子流のやり方で、理性面と感情面を統合するとすれば、自分の感情的な反応に注目し、それを改善するよう努力することだ。理性を使って感情を修養する。日々、なにが自分の感情や反応を誘発するか意識する。きみが世界をとらえるときのパターン化した習癖、つまり深く刻み込まれた物語はなんだろう。~中略~
 一日を通じて、感情の引き金や感情を左右する古い行動パターンをすべて意識するようになれば、いつでも自分の反応を磨きはじめられる。
気をつけてもらいたいのは、感情的な反応に注意を払うといっても、仏教の無念無想や如実知見におおまかにもとづいた「マインドフルネス」と呼ばれる人気の瞑想の概念とは違うということだ。自分の感情を観察し、それを受け入れ、そして解放することである種の内なる平穏を得ようといったたぐいのものではない。というのも、かりにそれで安らかな気分になったとしても、ふたたび世界とかかわりをもちはじめれば、すぐにしぼんでしまうからだ。
また、生きとし生けるものに抽象的な憐れみを感じることでもない。心の修養は外へ向かう行為で、世界から自分を取り除くためではなく、世界に参加するためにおこなう。そのため、あらゆる交流を通じて自分自身もまわりの人も向上させられる。マインドフルネス的な意味ではなく、孔子的な意味で注意を払うということだ。

P100
非常に難しい対人関係の問題に対応する場合、こうした磨かれた反応は、わたしたちがいつも最初にとる反応ではない。
ほとんどの人は、その場の感情や速やかな解決を望む気持ちに翻弄されるものだ。いつもと違うこのやり方は、たしかに手っ取り早い解決策ではない。一朝一夕に事態を改善してくれるものは一つもない。しかし、物事を大局的にとらえ、長期的にどうなるか考える経験を積み重ねることになる。できるだけ広い視野で、どうすれば結末を変えられるか理解したうえで状況に対応できるように鍛練することを心がければ、たえず自分の善の素質をつちかっていける。
感情を退けるというのではない。そんあことをすれば、状況の背景ぜんたいを感じとる能力をなくしかねない。そうではなく、感情に磨きをかけ、よりよい反応が直観的に前面に出てくるようにするということだ。  これが心を修養するということだ。
きみはもっと敏感に世界に反応できるようになり、よい面はもとのまま保たれ、見通す力は損なわれずに残る。

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