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筋目好き [日本(人)]

蘇我氏のそもそもの成り立ちは、歴史のなぞである。ただ蘇我氏は、クンナカの王家に対して自分の筋目をたてるために、「蘇我氏は武内宿禰の子孫である」
   と自称していたことはたしかで、その伝説的人物である武内宿禰はさらに伝説的天皇である孝元天皇(第八代)の曾孫であるという体になっているから、蘇我氏も「皇別」になる。大和民族の筋目好きは、どうやら成りあがりくさい蘇我氏あたりが最古の先例になるのではないか。

街道をゆく (1)
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1978/10)
P87

DSC_0976 (Small).JPG川中不動と天念寺

野武士というのは、野伏とも書き、武士でなく不良土民のことだ。集団をなし、戦いがおわると落武者をさがしだして、その所持品をうばうのが商売である。戦場泥棒というべき存在だろう。
~中略~
 戦国時代に身をおこした大名のほとんどは名も素性ない土民の出だが、江戸時代になって、しかるべき家系をつくった。系図づくりは、当時の風潮で、しかも幕府は諸大名や旗本に家譜をさしだすように命じているから、大名の家としては公務でもあった。
(昭和36年11月)

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10
司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)
P51

前近代の東アジア世界では、他人が人を「諱」で呼ぶと大変な失礼になった。本来、名前というものは人を呼ぶためにあるが、それが呼称にならない、というこの奇習は、中国に発し、朝鮮にひろがり、日本にまで到達した。
庄屋や名主など上層農民が、この「諱」をさかんにつけ、のちには、武士に憧れる普通の百姓たちもこの真似をした。
新撰組などは、その最たるものであり、武州多摩郡上石原村の百姓勝五郎は近藤勇昌宜(まさよし)、同郡石田村の百姓歳三は土方歳三義豊などと名乗り、まずはその名前から「武士」をはじめた。~中略~
 こういうことは、なにも百姓にかぎらない。大名も「大名らしい名前」を名乗った。
近世大名は、そのほとんどは戦国の乱れから、槍一本でのし上がってきた「土豪」の子孫である。文字通り、「氏素姓」が定かでないものが多い。そこで、いかめしい朝廷の官名を名乗って、大名らしくした。つまり、大名は、公家の真似をして、大名らしくなる。
―名にこだわる
 というのは、ある種、日本人の性といってよい。この国では、「名」によって驚くほど簡単に支配が正当化される。
木下藤吉郎が「豊臣」の姓を賜り、「関白」の官名を名乗ると、草履取の支配も、たちまちにして正当化された。
つまるところ、名があれば、日本人は納得する。
ブランド名による納得と支配。これが日本人の深層心理の一つといってよい。その中心には、いうまでもなく、天皇が位置しており、不思議なことに、この中心点は真空になっていて、天皇には姓という「名」がない。
肝心の天皇はもっぱら、臣下に姓を与えることによって、支配の中軸をなしてきた。

殿様の通信簿
磯田 道史 (著)
朝日新聞社 (2006/06)
P27


日蓮(~略~)は自分のことを、
 ―海辺の旃陀羅(せんだら)が子なり。
 とはっきり言っている。旃陀羅とは、インドの四姓(カースト)のなかにもはいらない再下層民で、おもに屠殺(とさつ)、漁労をなりわいとしていた階層である。
 それなのに、のちの日蓮信者は、
 ―聖武天皇のばっそん(末孫)。
                     「日蓮大聖人註画讃」
 などと、日蓮の血統を高く持ちあげねば気がすまなかった。これは、われは海辺の賤民の子と誇らかに名乗った日蓮の精神に、あきらかに反した操作である。だが、日本人は、大聖人がただの海辺の漁夫の子であることを許そうとしなかったのだ。
 おなじことは親鸞(~略~)にもいえる。
 彼が貴族日野有範の子であるというのは、きわめて疑わしいこととされている。
 王朝がしばしば交替した中国では、血への信仰はそんなに深まらなかった。また官僚制度においては、実権派が固定しないこともあって、日本のような「尊血主義」はうまれなかった。
 しばしば問題になる「家元」の制度にしても、日本でなければ誕生できなかった形態である。

日本人と中国人――〝同文同種〟と思いこむ危険
陳 舜臣 (著)
祥伝社 (2016/11/2)
P144

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