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家系の連続をねがう [雑学]

日本の古いしきたりでは道具類を購入したとき、その目だたないところに「何年何月何日」と購入の日を墨くろぐろと大書しておくことになっている。
私の家など雑駁(ざつばく)な分家ですでに父親の代にそういう律義な習慣が絶えてしまっているが、家内の家ではタライの裏にまでそういう文字が書かれていて、小さな劣等感をもったことがある。
こういう習慣は、家系の連続をねがうという祈りの一形式なのであろう。

街道をゆく (3)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/11)
P116

 DSC_0053 (Small).JPG門司港


 家系がつづくというのは、農業がもっとも持続力がある。もっとも、江戸期など、将軍・大名以下下級武士にいたるまで武家の家系というのは二百数十年の封建の世を持続しつづけた。
しかしこれは門地と禄という権利が家に付属していたからで、絶えそうになると養子でつなぎ、ときに夫婦養子でつないだ。逆にいえば養子が来るのは門地と禄があるからで、その養子制度がなければ、封建時代の武家の家系など、平均すれば四、五代で絶えているはずである。大名の家など、幕末ごろには藩祖の血をまったく享けていない殿様が多く、また、七、八割以上が養子を入れることにより家系の補綴をしてきたように思える。 自作農もまた、いまなおどの村々でも大ていの農家が江戸期以来の過去帳をもっているのは、田畑という持続のためのエネルギーがあるからである。

街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)
P282


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