村の鍛冶屋 [社会]
私の知識では鍛冶屋というのは大正時代ぐらいまでどの村にもあって、村人のために鎌や包丁などを打っていた。江戸時代は刀鍛冶に対して野鍛冶と言い、ともかくも職業としての伝統は医師と同様に古いのである。
ところがそれらの生産と販売は次第にメーカーの仕事になり、戦後は井関農機といったような大メーカーが農村をつつみこんでしまって、一郷一村にかならず存在した鍛冶屋というものが滅びてしまった。
街道をゆく (3)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/11)
P123
刀鍛冶や野鍛冶は、鋼(はがね)のもとになる玉鋼を買って来なければならない。玉鋼は、砂鉄を採掘してそれを熔かしてつくる。そういう製鉄業者(たたらもの)が吉井川の上流(たとえば作州の加茂盆地付近)に居て、供給する。
刀鍛冶・野鍛冶は、上古は製鉄現場の山のそばに寄り添うようにして住んでいたろうが、鎌倉期あたりから商品経済や運輸業がさかんになるにつれ、玉鋼の流通はかれらにまかせ、鍛冶たちは製品の販売の容易な下流あたり(山陽道ぞい)の平野に住むようになったのであろうか。
街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)
P279
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