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薬師寺院堂聖観音 [見仏]

わたくしはきのう聖林寺の観音の写実的な確かさに感服したが、しかしこの像のまえにあるときには、聖林寺の観音何するものぞという気がする。
もとよりこの写実は、近代的な、個性を重んずる写生とと同じではない。 一個の人を写さずして人間そのものを写すのである。
芸術の一流派としての写実的傾向ではなくして芸術の本質としての写実なのである。
~中略~
もし近代の結紮が一個の人を写して人間そのものを示現しているといえるならば、この種の古典的傑作は人間そのものを写して神を示現しているといえるであろう。

古寺巡礼
和辻 哲郎 (著)
岩波書店; 改版 (1979/3/16)
P171

photo_hotoke_seikannonbosatu.jpghttp://www.nara-yakushiji.com/guide/hotoke/hotoke_toindo.htmlより引用

DSC_5768M (Small).jpg聖林寺

DSC_7429 (Small).JPG薬師寺

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P141
 薬師寺はもと大和高市郡(たけちのこおり)岡本郷に草創された天武(てんむ)天皇勅願のみ寺であるが、その後、元明(げんめい)天皇平城遷都(せんと)さるるに伴い、いまの右京六条の地に移されたのだという。
金堂と講堂は、奈良朝以後屢々の災禍を蒙(こうむ)り、現存の御堂は後代の再建になるものだから、古(いにしえ)の結構はむろんうかがうことは出来ない。
しかし本尊と脇侍の三軀は、あらゆる災禍と風雨に耐えて、いまもなお白鳳の威容そのままに安置されてある。とくに本尊薬師如来は、白鳳期のみならずわが古仏のすべてを通して最高の傑作とさえいわるるみ仏である。
 荒廃した仄(ほの)暗い金堂の須弥壇(しゅみだん)上に、結跏趺坐(けっかふざ)する堂々八尺四寸の金銅座像であるが、私は何よりもまずその艶々(つやつや)した深い光沢に驚く。千二百年の歳月にも拘(かかわ)らず、たったいま降誕したばかりのような生々した光に輝いているのである。何処からこの光りが出てくるのであろう。
 ~中略~
 円満という言葉はこのみ仏を現出せしめたのであろうか。いままで我々は、彫刻の所謂(いわゆる)写実性によってのみこれを解せんとした。
だが前にも一度ふれたように、仏体における写実の「実」とは、仏自身であって、人間像への近接の度合によって推測されるべき事柄(ことがら)ではない。たとい近接してもこれを超えたところに、唯(ただ)ひとえにそこにみ仏の「実」が、即(すなわ)ち仏の仏たる所以(ゆえん)がある。
人間の願と仏の慈悲の相寄る刹那(せつな)であり、すでに記念の事に属する。かかる光のみ仏を現出せしめた祈念を私は歴史の上に辿ってみたい。
 前述のごとく薬師寺はもと天武天皇勅願の大寺である。日本書紀によれば天皇の九年冬十一月「癸未(みづのひつじ)、皇后体不予(みやまひ)したまふ。則(すなは)ち皇后の為(ため)に誓願(こひべが)ひて、初めて薬師寺を興(た)つ。仍(よ)りて一百の僧を度(いへで)せしめたまふ。
是(これ)に由りて安平(たひらぎ)たまふことを得たり」とある。
即ち皇后御病気平癒(へいゆ)を願って建立(こんりゅう)された寺であるが、忽(たちま)ち霊験(れいげん)あって皇后は御恢復(かいふく)になった。叡感のあまり薬匙三尊を鋳造されたと伝えられているのである。皇后は後の持統天皇である。
 然(しか)るに薬師三尊の鋪金(ほきん)未(いま)だ遂げぬうちに、朱鳥元年九月丙午(ひのえうま)、天武天皇は浄御原宮(きよみはらのみや)に崩御された。~中略~
しかし薬師寺の諸堂伽藍(がらん)の工が一応整ったのは次の文武(もんむ)天皇即位二年であり、造薬師寺司を置いて全く完備するには更に十年の歳月を要したのであるから、前後実に三十年に近き歳月を、三代の天皇が相継ぎ肝性に力をそそがれたのである。

P148
壬申の乱平定して八年の五月、皇后ならびに諸皇子を召して、久遠(くおん)の和を誓盟された有様が(住人注;日本書紀に)しるされてある。即ち、
~中略~
この一節によって、天武天皇が何を憂い、何を記念されたか、はっきり了知さるるのではなかろうか。「千歳の後に事無からむと欲す」と、久遠の和を念じ給い、各皇子盟約の後、自ら襟(えり)をお披(ひら)きになって皇子達を抱かれた。そのときの憂悩の深さを思うべきである。外においては、唐との外交、あるいは各群卿(ぐんけい)の統治と大化の改新の累積(るいせき)する諸問題を処理し給いつつ、内においては、血族の和をひたすら祈られたのであるが、上宮太子の御代より壬申の乱にいたる半世紀をかえりみるとき、実に衷心よりの念願だったと拝察される。
~中略~
 薬師三尊は、前記のごとく皇后全快を叡感されて造顕した勅願の仏体である。しかし、円(まろ)やかな相貌(そうぼう)と全軀にみなぎる深い光沢を仰ぐとき、天武天皇が生涯に(しょうがい)にわたって心奥に憧憬(どうけい)されたあの久遠の和の光輝を思わないわけにゆかない。
皇后の御病を縁として、信仰の一切がこのみ仏に念じこめられたのだと申してもいいのではなかろうか。

大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)


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