熊襲 [雑学]
北九州では筑後川と遠賀川がある。この二つの河流のほとりで古代文化をきずきあげた。
南九州では、この球磨川である。かつて筑紫といわれた北九州での二つの川は流れはゆるやかである。流域の大半は平野で、ひろびやかな農耕圏をつくり、早くから大規模の古代勢力をつくり、有史以前は独立していたかのようだが、中央政権ができるとあまり軋轢もなくそれに参加した。
が、渓谷を縫う球磨川流域の様相はちがっている。
その流れで農耕文化をきずいたひとびとは、クマといわれた。クマとは山襞(やまひだ)の古語である。
球磨川の流れを眼下に見おろしつつ、山襞に家と田を作り、山襞ごとに部族を成立させ、その部族がいくつかあつまって部族国家をなした。球磨川の山襞山襞でつくられた部族国家の数は多く、「日本書紀」の表現では、
「八十梟帥(やそたける)」
といわれた。八十もあった。むろん八十というのは単に多いという形容だろう。「熊襲八十梟帥」という。クマソは「古事記」では熊曾という字をあてている。
「日本書紀」ではクマ国とソ国を分けていて、熊はむろん、地域が山襞(くま)ばかりの球磨川流域のことであり、ソ(襲(そ)もしくは囎唹(そお))は大隅(鹿児島県)の隼人のことらしく、このあたりまでは異説はなさそうである。
畿内にできた中央政権は北九州の部族国家を参加させたが、南九州の球磨川の山襞山襞で八十(やそ)の山襞国家をつくって暮らしている熊襲を従わせることは容易でなかった。
~中略~
上代の天皇が政権らしいものが畿内という農耕人口の多い地帯に発生し、人口を背景にしてその政権が強大になったからといって、球磨川の山襞に住む人間たちがその傘下に入らねばならぬという論理はなく、すくなくとも熊襲たちはその画一化の論理が呑みこめなかったのである。
中央からわが方に従えといってきても、従う気にならなかったのであろう。
熊襲といえば、その漢字からみて体毛の剛(こわ)そうな未開野蛮な連中といった感じがするのは熊襲にとって迷惑なはなしで、畿内や北九州にくらべ、この球磨川流域がはたして後進地帯であったかとうかは疑問である。
街道をゆく (3)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/11)
P126
P128
球磨びとの性根は、その後の肥後人の気質につながってゆく。
球磨の山襞で鍬をふるっていれば、天は紺の千代紙のように小さい。小さな段々畠に両脚をつけて小さな天を頂いていればめしが食えるのである。
襞々いるどの球磨びともそうで、その球磨たちを人間社会として相関させてつないでいるのは一筋の球磨川だけなのである。
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