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封建後期の門司 [門司]

一六四三年(寛永二十年)江戸幕府は武家諸法度を定め、参勤交代の制が設けられると、九州の諸大名は小倉、大里から渡海するものが次第に多くなり、大里は宿駅として大いに賑わった。
~中略~
宝暦・天明の頃(一七五一年~)より蝦夷地を含む近江商人の流通独占が崩れ、人、貨物の動きが大阪商人を中心として盛んになった。
 田野浦は風待ち潮待ち日より待ち、船たで等の必要から赤間ヶ関の補助的存在となり、北前船の寄港地として繁昌したが、享保の頃よりこれに目をつけた抜荷船が出没するようになり、当局は厳しく取り締まりを行った。

郷土門司の歴史
中山主膳 (著)
金山堂書店 (1988/06/01)
P5

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P7
 一七七〇年(明和七年)名僧、蘭山禅師が、大里柳に静泰院を興し、修禅の学徒が雲集し、地元でも石原宗佑をはじめ、多くの民衆が教化された。
 一七八八年宗佑は報恩の微志として、静泰院へ黄檗版大蔵経六千二百巻を納付している。
 宗佑はその他一七五九年に、私財を投じ、猿喰の海岸に三十町一反六歩の新地開作、 一八〇三年九十四才の時藩命により、曽根開作八十四町八反四畝二十四歩を完成した。
~中略~

一七九一年(寛政三年)支那抜ヶ荷船(密貿易船)が響灘一帯に出没するので警戒のため、和布刈社境内に石火矢鉄砲等を備え、一八〇一年には抜ヶ荷船取り締まりのため、大里に長崎代官出張所を置いた。
 一八〇九年(文化六年)には楠原村(門司港地区)に塩田の工事が始まり、製塩事業は明治二十二年門司築港のための埋立工事開始のときまで続いた。

 一八三八年(天保九年)白野江部崎に、僧清虚がこの付近に難破船が多いのを嘆き、これを救うため讃岐金毘羅への献灯として、灯台がわりに火をたいた。


タグ:中山主膳
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