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日本人にとっての道路 [雑学]

日本の道路は昭和三十年台の後半からにわかによくなったが、それまではとても文明国とはいえないほどのひどさだった。
私は昭和三十五年に友人の自動車に乗せてもらって山陽道(国道2号)を走ったことがあるが、この日本の大幹線でさえ都市部をのぞけばほとんどが地道で、とくに岡山県長船あたりなどはひどく、両側の民家は自動車が舞いあげるホコリでもってきな粉をまぶしたようになっていた。
山陽道でさえそうだから他の道路は推して知るべきで、後世、日本文化史を書く人が昭和三十年代における道路文化の一大変革について数行でも触れるところがなければ日本文化を十分に語ったとはいえないかもしれない。
 明治以前の日本人の道路感覚は、路幅は馬一頭が通れる程度でいいというほどのものであった。  明智光秀が丹波亀岡(当時は亀山)を発して不意に京都を衝き、本能寺の織田信長を攻めたときの亀岡発京都までの三本の旧道をしらべたことがあるが、あぜ道に毛のはえたほどの路幅でしかなかった。
光秀の人馬は一列縦隊ですすんだであろう。ときに二列になったかもしれないが、いずれにしても一列では行軍にずいぶん時間がかかったにちがいない。光秀の京都を衝く行軍が三つの梯団にわかれ三つの道をとったとされるのは、戦術的配慮よりも行軍速度をはやめるためだったとおもわれる。
 古代ローマ人にとって道路は堅牢な構造物だったが、ローマ人のように牽駕式の戦車を通す思想をもたなかった日本人にとって、道路は二つの足の裏をのせる程度の幅をもった雑草の生えていない小空間であればよく、堅牢性などはまったく必要なかった。

街道をゆく (4)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/11)
P26

宇治川 (2) (Small).JPG宇治川

P81
紀元前、ローマ帝国はアッピア街道という壮大な道路インフラを整備し、4頭立ての牛車を紀子なし、街道を疾走していた。
 その後、西欧文明の発展は道路ネットワークに支えられた。各地の都市は必ず道路ネットワーク上にあり、人と物の交流が行われた。蒸気機関が世に登場するまでの2000年以上、街道の交流を支えた動力は牛と馬であった。

P88
 モンゴル軍の圧倒的強みは、大地を縦横無尽に走り回る騎馬軍団と牛車群である。そのモンゴル軍は、日本で牛馬の動力を奪われていたのだ。兵士と物資を戦闘の前線に運ぶ牛車と敵陣に突進してゆく騎馬軍団が麻痺していたのだ。~中略~
 日本にはぬかるんだ「泥」の土地が広がっているだけだった。

日本史の謎は「地形」で解ける
竹村 公太郎 (著)
PHP研究所 (2013/10/3)

 現在、我々は都道府県をこえる広域的な地域の呼称として通常、東北・関東・中部・近畿・中国・四国・九州の七つを使っています。
その中で、東北は時として奥羽と呼ばれることがあり、中部はさらに細かく甲信越・北陸・東海に分けられたり、中国も山陰と山陽に分けられて呼ばれることがあります。また、関東に対して、関西という呼称もしばしば用いられます。
そのうち奥羽や甲信越は、七世紀末に日本という国号を定めた「日本国」が、制度として設けた「国」の名前の略称から成り立つ呼称です。
そして、東海・北陸・山陽・山陰は、やはり律令制の下で造成された、直線的な道路の名称であり、「国」の上位の行政単位である「道」の呼称にもなっていること、またそれは「日本国」の支配層の出身地であり、国家の中心でもあった畿内に視点を置いた呼称であることは、前回お話ししました。

歴史を考えるヒント
網野 善彦(著)
新潮社 (2001/01)
P39

こうして道をあるいていて思ったことだが、中世以前の道はこういうものであっただろう。
細い上に木がおおいかぶさっていて、すこしも見通しがきかない。自分がどこにいるかをたしかめる方法すらない。おなじ道を何回通っても迷うということはよくわかる。狐狸(こり)の人を化かす話も、こういう道をあるいてみないとわからない。また夜はまったくあるけるものではない。まだ日は山の七合目から上あたりを照らしているはずだが、谷間の樹下の細道はすでに夜のように暗い。

忘れられた日本人
宮本常一 (著)
岩波書店 (1984/5/16)
P23

立松 昔は中山道のような大きな街道には表街道の他に、必ず裏街道があって、凶状持ちとか逃亡者だけが通る、関所のない道が必ずあった。
五木 むかし「風の王国」という小説を書くときに道の歴史を調べたことがありました。
日本には猟師道とか獣(けもの)道とか、いろいろな道があるわけです。その中の一つに、これも昔の差別的な表現ですが、かったい道というのがあった。
かったい道というのはハンセン病の患者さんが通る道なんです。人々に、理由のない拒否感を持たれて、世間から業病として疎まれた人たちが、痛みをこらえつつ、よじ登っていく道です。病者の道ですよね。

親鸞と道元
五木寛之(著),立松和平(著)
祥伝社 (2010/10/26)
P238


 十津川村役場が編纂した「十津川の地理」という本では、村の交通史を大きく分類して大正末期までを「徒歩のみの時代」としている。
 その徒歩のみの時代、大阪から五條、天辻峠、坂本をへて十津川へやってきた大阪の漢学者藤沢南岳が、簡潔な紀行文を書いている。南岳は周知のように作家藤沢桓夫(たけお)氏の祖父にあたる。
紀行は明治十九年八月のことで、そのころすでに一部、新道が開鑿(かいさく)されていた。 ~中略~
「旧道ハスナハチ歩クベカラズ」
 とても旧道なんぞ歩けたもんじゃありませんよ、といって土地の人が南岳に新道を自讃したというが、その新道も人間の徒歩をやっとゆるす程度で、こんにちの道路の概念外のものである。
それでも南岳は新道ができてから一番乗りしたことをよろこぶ一方、今後遊客の来訪がふえて秘境が秘境でなくなることを予見し、一種感慨のおもいをこめて、
「山霊其ノ秘ヲ秘スル能(あた)ハザルナリ」 
 と書いているから、こんにちふうにいえば俗化をおそれていると見ていい。
~中略~  この稿でかりに十津川街道とよんでいる道は、かつて西熊野街道とよばれた古街道が下地になっているが、それがいまの国道168号線のかたちに整えられるのは昭和三十四年である。
対岸の谷瀬の小さな集落のひとびととしては、本道ができあがってゆくのをみるにつれ、谷瀬だけが離れ島のようにとりのこされるのではないかという危機意識を持ったのかも知れない。吊橋がいかに巨大でもトラックを通すことはできず、せいぜいスクーターを通す程度だから、産業という欲得から出た架橋ではなく、本道とつながっておきたいという心理のほうが大きな要素だったにちがいない。
~中略~
 やがて急に道路が広くなり、新築のモダンな鉄筋三階建の建物の前に出た。十津川村役場とある。
 降りてながめてみると、村役場というよりも、裕福な地方都市の市庁舎といった印象をうける。
維新後、外界へ出る道路の建設のためにこの村ほど苦労してきた村はないが、要するに大樹海をかかえながら道路がないため材木として下界へおろすことが困難だったということだろう。
それが昭和三十年代から二車線の縦貫道路が開通し、他にも林道ができて、山々の価値が飛躍した。
徳川期、あるいはそれ以前の諸政権も租税をとることをあきらめてきたほどの僻地でありながら、道路のおかげで、弥生式時代以来、はじめて外界の経済と結びついてしまった。その象徴が、昭和五十一年に竣工したこのクリーム色の化粧タイルの新庁舎であるにちがいない。

街道をゆく (12)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1983/03)
P102


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