大悲山峰定寺 [見仏]
大悲山峰定寺は古来山伏の行場だったから、峰にも谷にも、よくなめした濃緑の皮革のような葉をもつ石楠花(しゃくなげ)の灌木が、あちこちに群落している。
修験道というのはこの高山植物を好む。石楠花のあるの自生する山には霊気があるという伝承がその世界にあるらしい。
峰定寺は勅願寺だったから、むかしもいまも檀家がない。
むかしは山林があったから何とか維持できた。それでも維新をむかえたころは寺域は荒れ放題で、山門など倒壊寸前だったらしい。
この寺には、歴代、住職がいなかった。山伏の本山である聖護院の別格本山のようになっていて、聖護院門跡が兼務する。
門跡は、江戸期では皇族が頭を剃ってその位置につく。維新でそういう法親王がもとの俗人に戻り、東京へ行ったしまったが、その前後に兼務していた峰定寺の山村のほとんどを売り払ってしまったらしい。
このため、もともと立ち行かない峰定寺が、いよいよ荒廃した。
いまも聖護院門跡がこの寺を兼務していることになっているが、その親元の聖護院そのものが本山を旅館にしたりして四苦八苦しているため、洛北の山中で風化しつつある峰定寺のために援助をするというような甲斐性はとてもないのである。
街道をゆく (4)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/11)
P34
英彦山展望台
P41
明治後、昭和初年までこの寺は無住であった。食えないために僧侶が入らず、結局は山形県から来た青年が、昭和四年にこの寺に居つき、キコリ同然の暮らしをして寺を護持した。
P39
いまは、庫裡にせよ、仁王門にせよ、また行場の岩壁に架かっている舞台づくりの本堂にせよ、修復がよくゆきとどいてきれいである。
なにしろ主要な建物が三棟とも重要文化財だし仏像六体もそれに指定されているから、経営の苦心もさることながら国家の金も十分に生きているにちがいない。
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