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織田信長 [雑学]

 織田信長は日本市場の人物にめずらしく世界感覚がいきいきしている。信長は極東の孤島の一隅でうまれた人間でありながら地球のかなたのイスパニア人やポルトガル人によっておこされた大航海時代という世界的な動向をいちはやく嗅ぎ知り、疑いもなくその潮流に乗った人物であった。
かれは農本主義よりも貿易による国家経営に魅力をもち、それに手をつけ、しかしながら中道で斃(住人注;たお)れた。  信長は、茶道を好んだ。
 茶道というサロンの芸術に対(むか)いあうものはそれよりも古典的な連歌であったが、連歌は無数の古歌を暗誦しておくという信長にとっては愚にもつかぬ教養が必要だったために、かれはそのグループに近寄らず(父親の信秀は連歌好きだったが)新興の茶道に熱中した。
そういう理由だけでなく、信長は詩歌そのものを好まず、それよりも造形芸術を愛した。かれは美術についての斬新な批評能力ももっていたし、それだけでなく、狩野永徳に大がかりな障壁画をかかせるといったふうに、一種のモダン・アートを指導者的な資質をもっていた。
 茶道とくに堺市民のなかで成立した茶道は、わびとかさびとかいうことはさることながら、モダン・アートを称揚し、それを茶室において鑑賞するというゆきかたをとっていたために西洋人のつば広帽子やラシャのマントを着て歩いたような信長としてはこよなき魅力であったであろう。
信長はオペラまで鑑賞した。こういう男にとって利休が大完成したわび茶などはどちらかといえば多少わずらわしかったかもしれない。
 それよりも、緑釉(りょくゆう)と黄釉で装われた舶来の香盒(こうごう)や、鉛のたっぷり入ったガラスの茶碗などを薄暗い茶室の中で手にとってながめるとき、それを運んできた東南アジアの湖のにおいや、異質の文明があるという欧州の天地を想像したに相違なく、それを思うときにかれの想像は、つねに世界性を帯びたにちがいない。

街道をゆく (4)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/11)
P175

黄檗山万福寺 (11).JPG黄檗山万福寺

P84
織田信長は、ようやく耕地のなかに根を張った家柄に育ちはしたが、その行動と性格は野性味にあふれた枝葉であったといえる。 
 織田信長の飛躍のきっかけとなった桶狭間の合戦にも、彼の雑草性はいかんなく発揮されている。まず第一に、この男は他人に臣従できない性格だった。今川義元という巨大な勢力にも膝を屈せず、常識的に見て勝ち目の薄い戦いを挑んだ。
 柴田勝家、佐久間信盛ら体制派的性格の老臣たちが、弟の信行を担いだのは、他人に仕えられない信長の雑草性を危惧したためだったに違いない。
 桶狭間の戦術もそうだ。エリート作物的な家臣が薦めた籠城策を排し、一か八かの奇襲に出る。この男には戦術の常識に従うこともおもしろくなかったのだ。こういう発想はエスタブリッシュドやエリートなどの作物人間にはないものである。
 しかし、織田信長の雑草性は、むしろこのあとでますます濃厚になってくる。この男はまず、体制、つまり耕作者の管理を峻烈に拒む。織田家の伝統、つまり家中の旧体制を徹底的に打ち破る。 累代の重臣たちを排し、正体不明の雑草人間を配下に集めて重役を担当させる。滝川一益、羽柴秀吉、明智光秀、細川藤孝らがそれである。
 兵制も従来の体制を廃して兵農分離を進め、主な重臣を城下に移住させる。この過程で織田軍には浪人、流れ者、犯罪者などが大量に流入したに違いない。作物人間なら身の毛もよだつこの連中を、信長はよく使いこなした。彼には、旧秩序を尊重するような美意識は欠けていたらしい。
~中略~
 この男は、土地=農業を基盤とした日本社会のなかで商工業の実利とそれが行財政に与える影響を感じ取った最初の日本人であったろう。しかもここで彼は「楽市楽座」という凄まじい改革を行なう。

P233
 それではなぜ、弱兵、凡将の信長軍団が戦国時代に最大の成功を収めえたのかというと、その第一は資金があったことだ。そして、その資金を豊富にしたのは信長が既成の権威にとらわれなかったためである。
 すでに述べた兵農分離、職能主義的人材登用などはその一例だが、長篠の戦いなどでは決定的な意味を持った鉄砲の大量使用にしても、信長が鉄砲という新しい兵器に対して先見性を持っていたということよりも、大量の鉄砲を買うだけの資金があったこと、そして、鉄砲を持った足軽を戦争の主力にし、上士よりも優先するという発想ができ、しかも、それを実行に移すことができたことのほうがはるかに重視すべきだ。
 鉄砲が優れた兵器だということくらいのことは、戦国時代後半の大名なら大抵知っていた。しかし、それを三千挺も買う金がなかなか揃わなかった。その上、戦争の主力は上士で、足軽は付け足しという常識であり、それこそが上士たる者の誇りであったから、それを全く一転させて、足軽の鉄砲隊を戦争の主力にするなどということは、上士集団の抵抗でとてもできなかった。

P107
 既成の概念にとらわれない「価値からの自由(ヴェルト・フライハイト)」。それを徹底した織田信長が、奇妙な自己流の考え方を実行し、多数の部下を納得させ得たのはなぜか。それはおそらく、既成概念に代わる明確な尺度を示し得たことであろう。つまり、信長の言動は、一見、非常に奇怪に見えても、決して気まぐれではないことが、家督を継いでから数年間に、多くの人々に理解され納得されたのである。
 信長が、既成概念―伝統、慣習、既存の制度や体制、その時代の常識や通説など―に代えて打ち出した新しい尺度とは、「唯目的的評価」ということであった。

P109
 織田信長の唯目的的判断基準が最も明確に示されるのは、その人間評価においてである。
「信長は人間を道具として見た」と、司馬遼太郎氏は書いている。正しくうがち得ているといえる。目的に沿っているか否かを唯一の判断基準とした信長は、人間を機能的に見たのである。したがって、この男の人間評価には、自己目的の完遂に役立つ部分しか入ってこない。

P112
もしこの男(住人注;織田信長)が、あと十年生き長らえたならば、おそらく全日本を征服していたであろうし、日本の歴史は大いに変わっていたであろう。
 日本全土を支配した織田政権はのちの豊臣政権のような脆弱なものではなかったろうし、徳川幕府のような退嬰(たいえい)的なものでもなかっただろう。織田信長は、秀吉ほど軽率な男でも、家康のような保守主義者でもなかった。もしこの男の生命が続き、裏装が実現していたなら、日本は三百年早く近代化していたかも知れない。
 だが、事実はそうはならなかった。信長は天正十年(一五八二年)、明智光秀の起した一種のテロルによって殺されてしまう。まことに惜しい、といえばいえる。しかし、これが単なる偶然であったかとなると、必ずしもそうとは思えない。
 毛利の外交僧、安国寺恵瓊は、すでに十年前にそれを予測している。あるいはこれは、「まぐれ当たり」だったかも知れない。だが、安国寺をしてそう思わせる何物かがあったに違いない。 

歴史からの発想―停滞と拘束からいかに脱するか
堺屋 太一(著)
日本経済新聞社 (2004/3/2)


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