渤海国 [雑学]
唐突だが、むかし満州(いまの東北)に渤海国という国があった。七一三年に興り、わずか二世紀余でほろんだ。
私はこの上代の満州にあった国のことを考えるのが好きで、以前もこの稿の朽木(くつき)街道のくだりで触れたような記憶ががある。
この国の民族は漢民族ではない。日本人と遠縁なるかもしれないツングースであり、東洋史の用語では扶余(ふよ)族である。
ついでながら上代の朝鮮半島には南方に韓族をもって主要民族とする百済と新羅があり、北方には扶余族の高句麗があった。
高句麗は満州を故郷とする騎馬民族が立てた国で、一時は北朝鮮だけでなく遼東半島から南満州をもふくめた広大な版図をもっていた。
中国に隋という統一国家出現するにおよんでこれに攻撃され、防戦し、悪戦苦闘のすえ勝った。
隋王朝はこれが主原因でほろぶのだが、そのあと唐が興り、おなじく攻撃してきたとき高句麗は力尽きてほろんだ。その遺民が東満にのがれて樹てた国が、渤海国である。
この国が、聖武天皇の神亀四(七二七)年に、突如、国交をもとめるべく使節団を送ってきたである。
渤海国は南満州からいまのソ連領沿海州におよぶ大国であったが、外交上は日本をもって父兄の国という礼をとった。
ひとつにはそういう入貢形式をとるほうが、中国的慣習としてみやげものが大きかったためでもある。渤海国からは主として貂(てん)の皮を持ってきた。これに対して日本は兄貴ぶらざるをえず、数倍のみやげものを持って帰らせた。
渤海国としてはこの朝貢貿易が魅力的だったのであろう。しばしばやってきたために日本の朝廷としてはそのつどばく大なみやげを持ち帰らせねばならず、ついにその経済的負担に堪えきれなくなった。
このためせめて六年に一度ぐらいしにしてくれといったり、あるいは十二年に一度にしてくれとも一時決めたこともあったが、渤海国のほうではそれを無視し、毎度愛想よくやってきては、日本の公卿たちと交驩(こうかん)し、詩文の会などをして楽しんだ。その来日は滅亡まで三十三回におよんだというから、相当な頻度である。
その来日のためのコースは、いまのソ連領ポシェット湾から出航し、原則として敦賀に入港することになっていた。
街道をゆく (4)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/11)
P218
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「あの地を満州とよぶな、東北とよべ」
と、こんにち中国人たちは、ついそう称んでしまう日本人の無知もしくは無礼をたしなめるが、しかし満州は満州である。
元来、万里の長城のそとであるこの地域は漢民族の土地ではなく、ウラル・アルタイ語を使うツングースの故郷であり、何千年来、かれはこの地で興亡した。
中華民国になってから東三省とか東北とかよばれ、ひきつづき中華人民共和国の堂々たる版図になったが、しかし満州国の満州ではなく、学問上の呼称として満州というこのばく然たる地域名が、せめてわれわれ非漢民族のあいでに使われても中華人民共和国の尊厳を傷つけるものではなさそうに思えるが、どうであろう。
でなければ、この満州を舞台に興亡したツングースの諸民族・諸国家の長い歴史立つ瀬がないではないか。
街道をゆく (2)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/10)
P252
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