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前田利家 [雑学]

戦国末期、北陸路が織田勢力のものになったとき、信長は柴田勝家を北ノ庄城(福井市)に置き、北陸道の触頭(ふれがしら)とした。
 いまの武生の武生市役所のあたりにあったらしい府中の城主には前田利家が命ぜられた。命令系統としては柴田勝家の指図をうけることになる。
 柴田勝家が賤ヶ岳で秀吉と決戦したとき、利家は系列上やむなく勝家に属して出陣したが、古くからの友人である秀吉と戦う気がせず、決戦に参加せずに府中にひきあげたということになっている。
 前田利家というひとはよほど人柄のいい人物だったらしく、そういう行動をとっていながら勝家に恨まれなかった。
勝家が賤ヶ岳で敗北して北ノ庄へ退却すべく北行する途中、この府中城に立ち寄って、湯漬けを乞ういているのである。
利家はそれをこの敗将のためにふるまった。敗将はさらに塩引の鮭を所望した。
利家はそれをふるまい、二人はよほど長時間昔ばなしをした。勝家が去ったあと、ほどなく追跡中の秀吉がこの府中城に立ち寄って、やはり湯漬を利家に所望している。

街道をゆく (4)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/11)
P256

街道をゆく〈4〉洛北諸道ほか (1978年)

街道をゆく〈4〉洛北諸道ほか (1978年)

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平等院 (21).JPG平等院

P83
加賀人が誇りにしているように、利家の樹(た)てたこの家は百万石という巨大な領国を有する日本最大の大名家である。
この家について語るには、まず藩祖の利家のことを記さねばならない。~中略~ 金沢では、いまなお、ちまたの浪人生すら、前田利家を呼び捨てにはしないのである。
 とはいえ、前田利家の人生は、呼び捨てにされるところから始まっている。呼び捨てにしたのは、織田信長。こともあろうに、信長は利家のことを、
「お犬」
 もしくは単に「犬」とよんだ。さすがに傍輩たちは「お犬」と「お」をつけてよんでくれたが、信長自身は、ひどいときは「犬め!」といって、利家を怒鳴りつけおよそ人間扱いしなかった。記録には「其頃(そのころ)、利家をお犬と申し候」(「利家夜話」)とある。
 ただ、利家のもしろさは、信長に踏まれても蹴られても、この暴君の天才性に心酔しきっており、けっして離れようとしなかったことである。
~中略~
 利家は「犬」と呼び捨てられたが、実の名は又左衛門といった。若いころの利家は、たいそう喧嘩好きでもあったし、恵まれた体軀を生かして、戦場という戦場で、あばれまわった。
―又左衛門槍
 という言葉がある。利家の持ち槍は、たいそう興のいった拵えで、遠くからでも目立った。
~中略~
合戦のたびに、利家は首を獲った。獲ると、例の又左衛門槍の先にその首をくくりつけて、得意そうにもどってきた、まさに、猟犬のようであり、事実このころの利家は、信長の走狗(そうく)といってよかった。
 このような利家であったが、生まれつきの、ある種の、
―徳性
 を備えていたのだろう。暴れ者のわりに、義にあつく、友には好かれた。
~中略~
秀吉が死ぬと、自然に、実力者あらそいは、
「加賀の大納言か、徳川の内府か」
という話になった。加賀の大納言というのは、もちろん利家のことである。
 戦国の狂瀾さめやらぬこの時代、人々は政治的に驚くほど単純であった。すなわち、強い者はえらい。強い者につく。人びとの行動はこれにつきた。
秀吉という大黒柱をうしなった豊臣家の侍たちは、城中で顔をあわせると、きまって、利家が強いか家康が強いか、二人を天秤にかけるような噂ばなしをはじめたが、そのとき、こんなことが言われた。
「加賀の大納言は体がよい」
というのである。官位も国数も、家康の方が上である。しかし、豊臣の家中では、利家に軍配をあげる者が多かった。

P114
 前田家には、信長ゆずりの華美な家風がある。信長の家中は武具が派手で、赤や金色の刀や槍で衆目を驚かした。前田家中は信長軍団の「破片(かけら)」といってよい。信長の残した軍団がそのまま北国の地に根付いたもので、思想も、美意識も、信長の好みを受け継ぎ、金箔の文化もその一つであった。

殿様の通信簿
磯田 道史 (著)
朝日新聞社 (2006/06)

殿様の通信簿 (新潮文庫)

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  • 作者: 道史, 磯田
  • 出版社/メーカー: 新潮社
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  • メディア: 文庫

 


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