So-net無料ブログ作成

若衆組 [日本(人)]

 日本の古代以来の文化は、氏族制で代表される北方的要素と、若衆組で代表される南方的要素とが重層しており、その濃淡は地域によってさまざまだったように思える。
 であるのに、日本の古代から中世にかけての社会は、氏族性を重点として観察され、解釈されすぎるきらいがあった。氏族制はタテの関係である。

街道をゆく (8)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1995)
P12

DSC_0280 (Small).JPG

P25
 その田掻きの選手たちは、いわば若衆宿から出た。若衆宿がほろびるとともに田掻きもほろびた。
「或は日本太古の遺風であるかもしれぬ」
 と「熊野民族記」に松本芳夫氏も書いておられるが、ともかくも昭和期というのは若衆組や田掻きだけでなく日本の多くの遺俗を容赦なくほろぼしてしまったという点でも、おそろしいほどの画時代性をもっている。

P54
 若衆組というのは、土地によってよび方がちがう。若衆組(わかしゅうぐみ)、若衆組(わかいしゅう)、若者組、若者連中、若連、若組、若勢(わかぜ)などといい、薩摩では若者のことをニセ(二才)という。二才(にせ)組、二才(にせ)衆などといい、この薩摩方言については「民俗学辞典」(柳田国男監修)では、
 ―ニセは新(にい)せで、妹背(いもせ)などという時のセに由来し、新たに若者入りした青年の意味である。
 と、解釈されている。
 古来、日本(とくに西日本)の村落共同体では、オトナの秩序組織または氏族組織などとは別個に、村落の運営の上での権威ある存在(ときに政治的存在)として若者グループが存在し、昭和初年ぐらいまでは古代形態とおぼしい姿と機能のままに存続していた。この稿では、その組織についての数多くの名称のうちで、かりに「若衆組」という言葉をえらんでつかっている。
 村落の運命を決するような事態がおこったとき、村の長老たちがこうと決めても、もし若衆組が反対すればどうにもならぬこともありえた。
 若衆組の内部では、家柄や村落秩序のなかでの身分の上下関係はいっさい通用せず、いわば平等で、秩序関係は年齢による序列ぐらいしかなく、統制と若者に対する教育権は、かれらのなかの年長の者の間から選ばれた若者頭がゆだねられている。若者頭の権威は、しばしば村長(むらおさ)さえ遠慮するほどのもので、とくにかれらのグループの公務(祭礼、または山村の場合では山火事の消防、あるいは漁村の場合では難破船の救助など)については、村の庄屋や家長たちになんら指揮権もしくは介入権はなく、すべて若衆組の自治にまかされている。

P58
西郷隆盛は、幼い頃小吉とよばれ、のち、吉兵衛、吉之助などと称した。
 かれがうまれた方限(ほうぎり)は、城下の甲突川の堤防の下加治屋町だった。七、八十軒ほどの下級士族の屋敷の並んでいる地域で、碁盤の目で区切ってそれぞれの屋敷の敷地ができている。
 若いころのかれは当然ながらその方限の若者組織に属した。~中略~
結婚するまでのあいだ、町内の若者組織に所属し、郷中頭の指導をうける。若者の教育に関しては郷中頭(ふつう十八歳ぐらい)の権限は絶対に近いもので、若者たちは両親よりもむしろ郷中頭に服従する習慣があった。
 西郷は早くにえらばれて下加治屋町の郷中頭になったが、よほど評判がよかったらしく、二十をすぎても下の者ががやめさせてくれず、異例なことに二十四歳というトウの立った年齢になるまでつとめていた。このことは西郷の西郷的人格の形成と政治力とそれに生涯の運命にかかわりがあったかと思える。
 西郷は幕末の風雲期に、京都で革命外交を旋回させていたころ、その幕僚のほとんどは自分が郷中頭だったころの下加治屋町の旧二才(にせ)たちだった。西郷にすればかれらなら気心が知れているし、安んじて追い使うこともできたのであろう。 維新が成立すると、それらの旧二才衆が新政府の官僚になり、明治六年に西郷が征韓論にやぶれて鹿児島に帰山したときも、ともに辞職はしなかった。むしろ他の方限の出身者が西郷を慕って下野した。
 やがて西郷とかれらが、鹿児島士族の二才衆を組織して在校一万人という私学校をおこすが、私学校組織は巨細(こさい)に見ると、もとの郷中組織であるにすぎない。

P90
若衆宿の慣習と鹿児島私学校の関係についてはすでにふれた。
 その集団やその社会のなかで、
 ―若イモンタチ。
 とよばれている集団は、平時にあっては鹿児島でいう大人衆(オセンシ)に対してじつに従順である。「オセンシのいうことは何が何でも聞け」というのが、薩摩藩における若者団体(郷中)の綱領のひとつであった。
ところがいったん若者集団が、正義そしての暴力(戦争)をいっせいに思いたつときは、大人衆は無力この上ない。私学校が暴発して、オセンシである西郷がそのことに反対の意見をもちつつも、「俺(おい)の体をやる」といってかれらにかつがれざるを得なかったのは、朝鮮にも―むろん、中国にもヨーロッパにも―ないふしぎな政治的奇習ではないだろうか。
昭和初年、軍部は下剋上の時代であったといわれている。下剋上とは、中世秩序をそういうかたちでなしくずしに崩していった室町期の現象のことで、この言葉を昭和初年の軍部の現象にあてはめて的確であるかどうか。
 日本では、若者集団における憂国とか憂国にともなう正義の表現というのは、かならず暴力をともなう。
きわめて多くの場合、正義と暴力は、同義語である。そういう憂国感情が「若者」間に共有されると、タテ秩序は消滅―多分に共有者間の幻覚ではあっても―するのである。
 二・二六事件の前夜、軍部の青年将校が憂国感情の共有因子として、若衆組化した。

P104
 ともかくも、日本の原社会像としての若衆組・若衆宿の存在は、それらがすでに消滅したこんにちでも、社会心理の上で、日本の社会においてはあらゆる面で生きているように思えるのである。

【送料無料】街道をゆく(8) [ 司馬遼太郎 ]

【送料無料】街道をゆく(8) [ 司馬遼太郎 ]
価格:546円(税込、送料込)

 私の今日まであるいて来た印象からすれば、年齢階梯制は西日本に濃くあらわれ、東日本に希薄になり、岩手県地方では若者組さえも存在しなかった村が少なくないのである。それらは単に後進的だからそうだったとは思えない。社会構造を別にしたものであると思われるのである。
しかしそれらは今日ではかなりとけあって来ていて、家父長的な同族結合の強いタイプと非血縁結合の強いものとの中間的な村のタイプがいくつもあるわけであるが、これらの両者を区別する目じるしとなるものは、前記の講堂や庵寮のある村以外に、大和・河内地方の民家の密集している村々では、村の中に道が一ヵ所ややひろくなっている所があり、そこを辻とよんでいるが、この辻を持つ所はたいてい辻寄りあいのおこなわれた村であり、非血縁的な地縁結合がつよい。
 したがって日本の村の中、合議制が見られたというのはこうした村々であって、それは必ずしも時代的な変遷からのみ生まれたとは見難いのである。
 さて年齢階梯制の濃厚なところでは隠居制度がつよくあらわれるのが普通であるが、隠居制度はその起源や起因についてはしばらくおくとしても、これを持ちこたえさせたのは、非血縁的な地縁共同体にあったと思われる。

忘れられた日本人
宮本常一 (著)
岩波書店 (1984/5/16)
P53

P55
若衆宿は大正時代にほぼ姿を消しましたが、高知県宿毛市にその一つである「浜田の泊り屋」が、国の重要有形民俗文化財として保存されていると知り、訪ねることにしました。
同市は、黒潮が日本列島に最も接近する場所の一つです。若衆という日本の古い習俗は、黒潮に乗って南方からやってきたのでしょうか。
 宿毛市の若衆宿は「泊り屋」と呼ばれ、かつては百数十カ所もあったそうです。それが、明治末期から大正期にかけて破壊されたり、公会堂に建て替えられて姿を消しました。現在は、同市山奈町芳奈地区に高床式の家屋が四軒残っているだけだそうです。

P135
「それなら」と宿毛湾に臨む道の駅「すくもサニーサイドパーク」でかつおのたたきと足摺沖特産というチャンバラ貝を食べ、「腹ごなしに宇和海を眺めましょう」と同じ道の駅内の海岸に沿った緑地公園を散歩していると奇妙な木造二階建ての建物があった。
古墳時代の銅鐸に描かれているような高床式倉庫のようにも見える。案内板には「復元された浜田の泊り屋」と記されていた。~中略~
「先生、レプリカでいきなりの歓迎ですよ」と建物入口に設置されたハシゴを上ると、約三・六メートル四方の板間だった。地上二メートル五〇センチくらいだろうか。壁はなく、キラキラと照り返す青い海がゆったりと視界に広がる。

P137
 昭和三十六(一九六一)年に高知女子大学社会研究調査部が同町(住人注;宿毛文教センター)の泊り屋を調査した報告者によると、男子は十五歳になると酒一升を持参し、若衆への加入を意味する「宿入り」をした、「宿」とは泊り屋のことである。若衆は夕食後、泊り屋へ行き、朝になると帰宅する。宿入りすれば一人前とみなされ、若衆の一員として氏神の祭礼や盆踊りなどの祭りや防災、海難救助、急病人の救済などを担い、結婚するか、一定の年齢に達すると脱退した。

P59
「人間は放ったらかしにすると野獣化する」。古今東西いかなる社会もそのように考えました。それゆえに、統治の仕組みが必要とされました。若衆はムラ社会という共同体において、若者を一人前にするために教育装置だったのです。
 さらに、武士社会には藩校、町人社会には寺子屋が導入されました。ところが、明治維新でそれらの伝統がすべてひっくり返され、近代教育が導入されました。そのほころびが長い時間を経て顕在化してきたのが、近年のいじめはじめとする教育問題ではないでしょうか。

山折哲雄の新・四国遍路
山折 哲雄 (著),黒田 仁朗(同行人) (その他)
PHP研究所 (2014/7/16)


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント