大坂城 [雑学]
石山本願寺は、16世紀の世界最強軍団を率いる織田信長と11年間も戦い、ついに負けることはなかった(最終的にはこの地から退去を条件に和睦)。彼らの拠点がこの上町台地の大坂城の跡にあったという。
戦国時代の上町台地の周辺の低地は湿地帯であった。
~中略~
本願寺が十年以上も持ちこたえたのは、本願寺の信者たちに強い宗教心があったからと歴史では学んできた。しかし、この本願寺跡の地形を見詰めていると、彼らは難攻不落の地形に陣取ったから負けなかったのだということが見えてくる。
織田信長はこの地形を奪おうと11年間かけた。その後、豊臣秀吉はこの地形を利用して難攻不落の大坂城を建造して天下を制した。その後、徳川家康はいかに秀吉の難攻不落の大坂城を陥落させるかに腐心した。
日本史の謎は「地形」で解ける
竹村 公太郎 (著)
PHP研究所 (2013/10/3)
P6P
P121
大坂城は上町台地の先端に位置している。上町台地の先端は海で終わっていて、台地の下には河内の湿地帯が広がっていた。大坂城へ進入できるの唯一、天王寺からの谷町筋だけであった。その谷町筋は上町台地の尾根道であった。
織田信長が11年間も手を焼いた石山本願寺の拠点はこの上町台地の先端にあった。この上町台地の地形が織田信長を苦しめていたのだ。
石山本願寺に苦戦する信長を見ていた家康は、上町台地の地形の恐ろしさを知っていた。その後、ライバルの豊臣秀吉がその場所に大坂城を築いてしまった。
大坂城というのはふしぎな城で、この城は一度も勝ったことがない。
もともと、この地に築城した最初の人物は、戦国初期の本願寺中興の法主蓮如であり、城の名は石山本願寺と呼ばれた。
~中略~
秀吉は、当時信長の部将だった。信長の石山攻めの難渋を見て、この城がほしいとおもったのであろう。のちに天下をとるや、ただちにここに城を築いた。
~中略~
維新前夜の慶応四年の元旦、幕府最後の将軍慶喜は、この城に在城していた。このとき京には薩長を主力とする倒幕軍が幼帝を擁して集結しており、大坂城の幕軍とのあいだに一触即発の空気があった。
~中略~
維新のとき、大坂城を皇居として帝都を大坂におく案がほとんど決定しかけていたが、結局は、江戸城が皇居となった。大坂城の運の悪さを考えあわせると、そのほうがよかったかもしれないと思うのである。
(昭和36年11月)
司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10
司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)
P47
大坂城を見たポルトガルの宣教師たちは、これを「コンスタンティノープル以東における最大最強の城郭」と評している。
東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルは、オスマントルコ軍の猛攻に百年以上耐えた大城塞都市であり、当時のキリスト教徒には伝説化した存在だった。
宣教師たちが、城塞都市ではなく、ただの城郭であった大坂城をこれに比肩させたことは、この城が彼らの目にも信じ難い規模と機能を有していたことを示している。
当時の日本は、建築技術の上でも西欧に優るものを持っていたわけである。
歴史からの発想―停滞と拘束からいかに脱するか
堺屋 太一(著)
日本経済新聞社 (2004/3/2)
P56
二十石船が毛馬から淀川を南下する。正面に、小高い丘があらわえれた。崖の手前で大和川を合わせ、水は広がる。「あの山は何んというのか」と、船上の老僧が指さす。
本願寺の蓮如で、数え八十二歳だった。ときに、明応五年(一四九六)八月十六日である。
苦闘のすえ、ようやく京都山科に本願寺を建てた。繁栄している。だが、蓮如は先を見ていた。
いよいよ戦国の世が深まる。他宗派の迫害が絶えない。いざとなると、山科の地形は危うい。
~中略~
蓮如は丘へ上がるといい出した。なだらかな坂がある。聞くと、小坂とも大坂とも書き、おさか、と読む。蓮如はさっそく和歌を詠み、「大さかの山」とした。大坂の名が、史上にはじめて出現した。正しくは摂津の国東郡(こおり)生玉の庄(しょう)小坂村である。
~中略~
御坊を立てはじめたのは、その九月だった。堺の商人が資金を出し、摂河泉や大和の本願寺門徒が立ち働いた。
掘り出すと、石がごろごろと出て来る。礎石に手ごろである。蓮如はここを石山と呼ぶと宣言した。昔の古墳の石らしい。かくて、石山御坊が建つ。いまの大阪城の本丸の場所と考えられる。
大阪学
大谷 晃一 (著)
新潮社 (1996/12)
P135
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