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江戸 [雑学]


P29
 1590年に家康が江戸城に入った、といってもそれは荒れ果てた砦であった。
天下人の秀吉と雌雄を争う家康が入るような城ではなかった。
 それ以上に、江戸城郭から見渡す風景は、凄まじいほど悲惨であった。
 見渡す限りヨシ原が続く湿地帯であり、雨になれば一面水浸しになる不毛の地であった。
秀吉による江戸転封命令が、徳川家にとっていかに我慢ならない仕打ちであったか。その理由は、この関東が途方もなく劣悪で使い物にならない土地だったからだ。

P32
 1590年に江戸に入り1600年の関ヶ原戦い以前、家康は関東一帯の調査に引き続いて二つの工事に着手していた。
 一つが有名な1592年の日比谷入江の埋立てである。近くの神田山を削って江戸城下を取り巻く湿地帯を埋め立てる。埋立地に武士たちを住まわし、埋立地を沖へ押し出し、船の接岸の水深を確保するものであった。
~中略~
 1594年、江戸から北へ60㎞も離れた川俣(現在の埼玉県羽生市の北部)で人知れず着手されていた。それは「会(あい)の川締め切り」と呼ばれる河川工事であった。
家康はこの工事を極めて重要なものと認識していた。その証拠に、家康は四男・松平忠吉を工事責任者として今の埼玉県行田市の忍(おし)城の城主に据え、利根川の治水と関東の新田開発に専念させる体制を構えた。
 この「会の川締め切り」は湿地の関東を乾燥陸化する第一歩であった。これにより、気の遠くなる自然との闘いの緒戦が切って落とされた。
~中略~
 江戸に帰った翌年の1604年、後に「お手伝い普請」と呼ばれる制度を編み出した。これは諸大名を動員し、彼らの財力や人材を利用して大土木工事を行うものであった。このお手伝い普請で利根川との戦いが再開された。~中略~
 この(住人注;下総台地の一番狭い部分)台地の開削によって、利根川が太平洋とつながった。家康の「会の川締め切り」から30年目、江戸幕府は3代将軍家光の時代になっていた。

P202
 小名木川は、海の波に影響されないで進軍する軍事用の高速水路であった。家康は、このためにわざわざ海岸線の内側の干潟に水路を建設したのだ。
 行徳の塩田を征するだけなら、このような水路など不必要である。天気の良い日を狙って、海岸沿いを伝って行徳まで行けばよい。

P231
 江戸を襲う隅田川は北西から流れてくる、河口は江戸湾の入江が深く入り込んでいて、その入江の奥に中洲の小丘があつた。その小丘の上に江戸の最古の寺が建っていた。それが浅草寺であった。
 徳川幕府はこの浅草寺に注目した。浅草寺が1000年の歴史を持っていることは、この一帯で最も安全な場所という証拠なのだ。その浅草寺を治水の拠点とする。
 つまり、浅草寺の小丘から堤防を北西に延ばし、その堤防を今の三ノ輪から日暮里の高台にぶつける。このお堤防で洪水を東へ誘導して隅田川の左岸で溢れさせ、隅田川の西の右岸に展開する江戸市街を守る。

P371
「なぜ、家康は(住人注;京都にとどまらず)あの江戸へ戻ってしまったのか?」
  この問いのエネルギーからの解答が373ページの図2である。この図は、巨木の伐採圏の遷移を示している。図のタイトルの「記念構造物のため」でわかるように、宮廷、寺院、城などを建造する巨木の伐採の時代変遷である。
~中略~
 家康が関ヶ原で戦っていた頃、木材需要は関西圏の森林再生能力を超えていたことが図2からわかる。当時、大坂で約40万人、京都でも約40万人の人口であったといわれている。
少なく見積もっても、関西圏で年間800万本の立木が必要であった。これでは関西の山地は荒廃せざるを得ない。すでに室町時代の後半、京都の山や比叡山は荒廃していたと伝えられている。

P374
1590年に家康は秀吉によって江戸へ移封されたが、そこでみたものは日本一の利根川流域の手つかずの森林であった。目にしみ入るような緑は利根川流域の未来の発展を告げていた。家康は利根川の江戸を選択した。
 これが「なぜ、家康は(住人注;京都にとどまらず)あの江戸へ戻ってしまったのか?」の問いに対するエネルギーの観点からの答えである。
 強力な権力を確立した江戸幕府は、木材供給基地を利根川・荒川流域でけにとどめなかった。幕府直轄の木材基地を日田、吉野、木曽、飛騨、秋田、蝦夷と全国へ広げた。
江戸幕府は、文明のエネルギー負荷を日本列島全体へ広く薄く分担させることに成功した。全国各地から江戸に向かう大型船の船底には大量の木材が積み込まれた。
 こうして日本全土から江戸へエネルギーが注入されたことにより、100万人という世界最大の都市・江戸の出現が可能となり、徳川幕府260年の長期政権が保たれたのであった。

日本史の謎は「地形」で解ける
竹村 公太郎 (著)
PHP研究所 (2013/10/3)

日本史の謎は「地形」で解ける (PHP文庫)

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東京国際フォーラム

 関ヶ原と、大坂ノ役によって豊臣家の勢力が地上から消えるや、徳川政権の所在地である江戸は、都市として爆発的な繁栄をはじめるkととなった。
 こんにち、農村の次男坊以下が、東京へゆけばなんとかなる、と考えているように、徳川初期の諸国にみなぎった江戸熱というものは相当なもので、諸国から一代身上を夢みる一旗組がぞくぞくとあつまってきた。
 江戸は、将軍とその直参のほか、三百諸侯がその家臣をひきいて駐留している、武家の町である。人数にすれば、五十万はくだらぬといわれ、そのすべてが、完全消費生活者であった。国もとから吸いあげる金穀を江戸でつかうのである。江戸の町人は、かれらの消費生活のおかげで衣食しているわけで、手に職があるか、商才さえあれば、江戸で旗をあげるのはさして困難ではない。
「江戸へゆこう」
 というのは、覇気ある諸国の庶民の合言葉のようなものであった。
 漁師までが江戸へ行った。大坂の佃(つくだ)に群居していた海岸漁師が、集団移動していまの東京湾の佃島にすんだのもそのころだし、いまの大阪府大和田にいた鰻とりのうまい淀川の漁師たちが、鰻をとるだけの技術で、江戸の川すじに集団移住したのもそのころである。いまだに東京の鰻屋の屋号に「大和田」というのが多いが、この屋号には、三百年前のそういう歴史が秘められている。
~後略
(昭和37年5月)

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10
司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)
P157

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10 (新潮文庫)

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  • 作者: 司馬 遼太郎
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 江戸は確かに人工都市である。家康が後北条氏の滅亡後に関東移封になったとき、当時の常識では小田原城に入るのが普通だった。しかし彼は敢えて江戸を選び、廃城に等しい江戸城に入った。
当時の人口は二千人、それが天明七年(一七八七)の大飢饉に救い米を出すときの人口調査では百六十二万六千五百人になっている。それでいて江戸はドン・ロドリゴ・ビベーロの「日本見聞録」でも宣教師フェリスの「東洋書簡集」でも、当時のヨーロッパのどの町よりも美しい町としている。
そしてその基本となったのが利根川の水流を変えたことと、駿河台から神田につづく高台をほりくずして、いまの皇居前の海を埋め立てたことであった。皮肉なことに、開発反対・自然を守れの急先鋒の新聞社は、かつての「江戸ポートピア」の上に建っている。そして神田付近の平地は、「江戸ポートピア」をつくるため掘りくずされた台地の跡である。
駿河台から猿楽町に下りて行く急な長い石段が今もあるが、その近くの印刷所や製本所行くたびに、私は、これはかつて台地を削りとったために出来た崖だなと思う。そしてその土をもって、今の帝国ホテルから帝国劇場に通ずる線の南の海を全部埋めたて、それが現在の日本の中心地になっていることを思うと、「政治権力と土木」ということを考えざるを得なかった。
~中略~ それ(住人注;東京という都市)は家康型「土地改良事業法」俗にいう「土改法」の強大な権力による施行の結果である。

「御時世」の研究
山本 七平 (著)
文藝春秋 (1986/05)
P47

「御時世」の研究

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  • 作者: 山本 七平
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 1986/05
  • メディア: ハードカバー





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