求菩提山の衰退 [見仏]
全国的にみても元禄という時代は、修験道にとって極めて重要な時期で、元禄一一年は山伏の開祖とする役行者の千年忌に当たり、各山々も盛大な法要を行い、本山の法要にも集まった。
求菩提山の本山は京都聖護院であるので、当時座主病中で役僧三名が上洛した。
享保二〇年(一七三五)の領主の御取調べをみると、坊名を全部あげ、「以下百五拾弐戸は享保二十年ノ此迄在の坊中」とあり、坊の増大をみせている。狭い山中にこれだけの山伏が密集し生活をしていることに、今さらながら驚くのである。
近世における修験道は、一応この頃がピーク時代とみてよいのではあるまいか。
山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる
重松 敏美(著)
日本放送出版協会; 〔カラー版〕版 (1986/11)
P77
山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる (NHKブックス)
- 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
- 発売日: 2021/10/05
- メディア: 単行本
P68
「求菩提山雑記」に、等覚寺のことについて、次のようなことを述べている。それによると、応永年間(一三九四~)僧徒たちは、神田の浜で敵を迎え討ったが、その時の僧徒の戦死の数は夥(おびただ)しかったとある。また、天正の兵火で堂社はことごとく消失したとある。
豊前地方の山の消失は、この天正の兵火によるものが多い。この時が豊前地方の第一次の荒廃期であって、この中から立ち直りのできた山とできない山で大きく変わった。そして明治の廃仏毀釈が第二次で、これによって全滅したのである。
P78
修験者の生活基盤は、当時は檀家であった。その八割強は農家とみてよい。とすると、江戸中期から天災地変が大きな衰退の要因とも考えてよいものであろう。
修験者は生産者でなく、檀家に支えられた副次的なものであって、天災は農民大衆を苦しめ、それは直接山の修験者たちに影響を及ぼしたであろう。
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