比叡山 [見仏]
叡山というのは、ゆらい、政治的現象に敏感でありすぎたようである。すくなくとも、越前永平寺にくらべればこれはわかる。
中世末期までの宮廷政治の裏面にはかならず叡山の黒い影がみられた。そうした延暦寺の政治への過敏さに対して総決算を強いた人災は、元亀二年の織田信長の延暦寺焼討であったように思われる。
信長という人物が日本歴史に果たした役割は、なんといっても中世の体系と中世的な迷妄を打破して歴史を近世に導いたところにあったろう。
この人物は、不条理や不可知なるものを並はずれて憎悪した。その点ではあるいは異常性格者であったかもしれない。
彼は叡山が、仏法の精舎たることをわすれて武力を貯え政争に容かいする不条理を憎み、火を放ち衆徒を殴殺して地上から延暦寺のすべてを抹殺することを考えかつ実行した。
この時以来、叡山は半ば衰退し、そのまま数世紀を経てこんにちに至っている。
司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10
司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)
P104
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