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出雲大社 [日本(人)]

 さて、出雲王朝のヌシである大国主命の降伏後の出雲はどうなったか。出雲へは、「高天ガ原」から進駐軍司令官として天穂日命(あめのほひのみこと)が派遣された。
駐屯した軍営は、いまの松江市外大庭(おおば)村の大庭神社の地である。ところが、この天孫人はダグラス・マッカーサーのような頑固な性格の男ではなかったらしく、「神代記」下巻に、「此の神、大己貴命に佞媚(ねいび)して、三年に及ぶまで、尚ほ報聞せず」とある。出雲人にまるめこまれたのであろう。~中略~ ゴウをにやした高天ガ原政権では、さらに天穂日命の子である武三熊之大人(たけみくまのうし)という人物を派遣した。
しかしこの司令官もまた「父に順(したが)ひ、遂に 報聞」しなかった。
 当然のことながら、高天ガ原では、大国主の生存するかぎり、出雲の占領統治はうまくゆかないとみた。ついに、大国主に対して、「汝、応(まさ)に天日隅宮(あまのひすみのみや)に住むべし」との断罪をくだした。
 この天日隅宮が、つまり出雲大社である。おそらく、大国主命は殺されたという意味であろう。
かれが現人神(あらひとがみ)であるかぎり、現地人の尊崇を集めて占領統治がうまくいくまい、とあって、事実上の「神」にされてしまったのである。
この点は、太平洋戦争終結当時の事情とやや似てはいるが、二十世紀のアメリカは、天孫民族の帝王に対してより温情的であった。しかし神代の天孫民族は、前代の支配王朝に対して、古代的な酷烈さをもってのぞんだ。
 大国主命は、ついに「神」として出雲大社に鎮まりかえった。
もはや、現人神あった当時のように、出雲の旧領民に対していかなる政治力も発揮しえないであろう。
「祭神」になってしまった大国主に対して、高天ガ原政権は、進駐軍司令官天穂日命とその子孫に永久に宮司になることを命じた。
 天孫族である天穂日命は、出雲大社の斎主になることによって出雲民族を慰撫し、祭神大国主命の代行者という立場で、出雲における占領政治を正当化した。
奇形な祭政一致体制がうまれたわけである。その天穂日命の子孫が、出雲国造となり、同時に連綿として出雲大社の斎主となった。
いわば、旧出雲王朝の側からいえば、簒奪者(さんだつしゃ)の家系が数千年にわたって出雲の支配者になったといえるだろう。
いまの出雲大社の宮司家であり国造家である千家氏、北島氏の家系がそれである。



司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10

司馬遼太郎 (著)


新潮社 (2004/12/22)

P231



司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10 (新潮文庫)

司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10 (新潮文庫)

  • 作者: 遼太郎, 司馬
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2004/12/22
  • メディア: 文庫



 


P234
 古代国家にとって、これほどの大造営は、国力を傾けるほどのエネルギーを要したであろう。しかし、大和や山城の政権は、それをしなければならなかった。その必要が出雲にはあった。十六丈のピラミッド的大神殿を建てねば、出雲の民心は安まらなかったのである。
古代出雲王朝の亡霊が、なお、中古にいたるまで、中央政権に対して無言の圧力を加えていたと私は見る。
~中略~
 天穂日命の子孫は、天穂日命自身がすでにそうであったように、すぐ出雲化した。
かれら新しい支配者は土着出雲人に同化し、天ツ神であることを忘れ、出雲民族の恨みを相続し、まるで大国主の裔であるがごとき言動をした。



司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10 (新潮文庫)

司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10 (新潮文庫)

  • 作者: 遼太郎, 司馬
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2004/12/22
  • メディア: 文庫




 


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