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元寇 [国際社会]

 十三世紀末の高麗朝舞台とする井上靖氏の「風濤」を読んでもわかるように、高麗人にとっての恐怖は儒教的原理をもたない異民族が中国大陸の主人になることだった。
 元帝国の出現である。
 わずか百万そこそこのモンゴル人が、数億の漢民族を武力で征服し、礼教に拠らずして支配しはじめたのである。礼教の原理によらず、ごく生物的な膨張への本能でもって元帝国は旋回しはじめるという歴史的異変が現出した。
元帝国は高麗朝を武力でおどしはじめた。高麗の物産を収奪し、あげくのはては、
 ―日本を攻めよ。その費用を分担せよ。
 と恐喝した。高麗人は戦慄し、ほろんだ漢民族の南宋を、悲鳴をあげたくなるほどの思いでなつかしんだ。
 このあたりが、朝鮮人のむずかしさである。モンゴル人は元来、朝鮮人とおなじくウラル・アルタイ語族に属する人種で、朝鮮人にとっていわば血縁民族といっていい。
人種的には漢民族のほうが言語までまるでちがうのだが、しかしそれでも儒教という「原理」を一つにするということで、考え方も行動のしかたもすべて理解ができ、たがいに無害の状態で存在しあうことができるのだが、モンゴル人には儒教がなく、要するに儒教的にいえばけものに近い人間―夷狄(いてき)―なのである。
結局、高麗朝はこの夷狄の帝国におどされてともどもに日本の博多湾まで攻めこんできて、「風濤」にやられてしりぞくのである。


街道をゆく (2)
司馬 遼太郎(著) 
朝日新聞社 (1978/10)
P127


DSC_0604 (Small).JPG鶴林寺 (加古川市)


P145
 対馬は、元寇のとき、元と高麗の連合軍に襲われ、島の男女は壱岐をもふくめておびただしく殺され、しかもその殺戮のされかたは残虐酸鼻をきわめた。倭寇というものが東アジアの歴史登場するのは元寇以後のことで、それ以前はない。はじめの動機は、たしかに元寇の報復であったにちがいない。
 倭寇の勢いがさかんになった室町期になると、高麗朝が手を焼き、室町幕府にその禁遏(きんあつ)を何度もたのんできているが、室町幕府というこの統治力の薄弱な政権では、倭寇を抑えるほどの統制力はなかった。
 結局、高麗朝としては対馬の大名宗氏と交渉するほかなく、対馬の宗氏は、
「そのかわり、米を貰いたい」
 ということになり、米を貰う以上、高麗朝に所属してしまおうということで、日本と朝鮮との両属という奇妙な関係になった。この両属のすがたは、高麗朝がほろんで李朝の世になっても同様であった。むしろ結びつきは固くなった。


あまり知られていませんが、十三世紀後半のモンゴル襲来の時、越前の敦賀に防衛のための役所があり、北陸道の御家人が警固に動員された形跡があります。若狭国御家人に建治元年(一二七五)、「蒙古国事」について用意せよという命令が下っています。
実は、モンゴル軍はその頃、サハリンに侵入しているのです。

ちょうど、北海道にアイヌ文化が形成された頃で、サハリンにも数多くのアイヌ人が入っていますが、アイヌはさらに、交易のためアムール川の上流にまで遡るという活発な動きを見せています。そこでアイヌはニヴフ(ギリヤーク)と衝突したようです。
そしてその衝突に関連して、ニヴフの訴えに応じてモンゴルの軍勢がアイヌと戦い、サハリンに四回も侵入したのです。
アイヌの方が優勢だったという説もありますが、問題はそうした北方の動向をある程度つかんでいたかということです。
敦賀に防衛の拠点を設けたのは、あるいはモンゴルが日本海を渡って、北方から攻め込んでくることを想定していたとも考えられます。

歴史を考えるヒント
網野 善彦(著)

新潮社 (2001/01)
P49


とにかく、大量報復戦略、秘密警察、”宗教の自由”というきわめて画期的な発想を一人で三つも生み出したというような偉大な政治家は、世界史を見渡してもジンギス・カン一人だといっていい。
私が世界史史上最大の政治家という所以である。
 そして、この三つの画期的発想をワンセットにしたのが、モンゴル世界帝国であった。したがって、モンゴル世界帝国の崩壊も、この三つの画期的発想の破綻によって始まるのである。


歴史からの発想―停滞と拘束からいかに脱するか

堺屋 太一(著)
日本経済新聞社 (2004/3/2)
P219




 十三世紀に世界征服を遂げたモンゴル帝国の遠征軍というのは、その兵力はせいぜい十数万騎から二十万騎程度のものであったであろうか。かれらは一人ひとりが二十頭ほどの乗り換え馬を曳っぱってといわれる。
 その戦力の重大な要素は、そのあたりにあったであろう。その西征軍はいたるところでヨーロッパ軍を破り、ハンガリー平野を踏みにじり、一時はイタリアの辺境、ウィーンの近郊にせまり、ドナウ川に馬蹄を洗った。
さらにドナウ川以西の西ヨーロッパに攻め入る余力は十分に残していたし、キリスト教世界は大恐慌におちいるのだが、偶然、モンゴル側の事情(ウゲデイ・カンの崩御)によって遠征は中止され、潮のようにモンゴル高原へひきあげてしまうのである。

街道をゆく (5)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/10)
P241








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