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韓民族の思考方式 [国際社会]

 仏国寺の朝鮮における貴重さは、わが国でいえば、法隆寺とか唐招提寺とかいう存在にあたるであろう。
それ以上に貴重であるのは、この国には仏国寺以外に古い仏教建築がほとんど遺っていないからである。
「たくさんあったが、みな清正(チョンジョン)(加藤清正)が焼いてしまった」
 と、いつか在日朝鮮人の若い人にはげしく罵られて閉口したことがあるが、これも朝鮮人の思考方式といっていい。
怨念が強烈な観念になって事実認識というゆとりを押し流してしまう。
日本の進歩的論客の一部にそれがあり、両者ともどう考えても、ツングース人種の固有の精神体質としか言いようがない。~中略~
 昭和三十年代のいつごろだったか、韓国から中学生の旅行団が日本にきたことがある。京都の太秦の広隆寺を参拝し、ヤスパース
が絶賛したという例の弥勒の半跏思惟像を見て、
 ―これも日本が韓国から略奪してきた。
 と叫んで、大さわぎしたという新聞記事を読み、ぼう然とした思いをしたことがある。
日本の新聞記事はこれについて韓国の中学生に対してごくさらりとした好意的な書き方で書かれていたような気がするが、私のぼう然というのは中学生を騒がしめている一個の観念である。
反日教育がそれを作りあげたのにちがいないが、反日教育の必要は私には痛いほどわかるにしても、なぜ引率の教師がそうではないと教えなかったのであろう。清正と伊藤博文をもって盗賊の象徴的代表者であるとするのは大いに賛成するが、しかしこの二つの象徴だけが日本と朝鮮との関係のすべてではない。
 いまの京都市の市内と郊外は、かつて山城国とよばれていた。」平安遷都以前に於いてこの山城平野を開拓したのは朝鮮からの渡来者であった。かれらを秦氏と言い、太秦を首都(ソウル)としていた。
 その隆盛期に出た秦河勝(はたのかわかつ)は政治家として聖徳太子の経済的なパトロンであり、太子のために太秦に広隆寺をたて、いわば別荘として提供した。
その秦氏はその部族の工人につくらせたか、本国からもってきたかしたものがこの日本でもっともすぐれた塑像とされている弥勒の半跏思惟像なのである。
侵略というこの凶凶(まがまが)しい関係のほかにそういう関係も日本と朝鮮とのあいだに濃厚にある。
たとえばその秦氏は決して虐待されていない。上古ではこの氏族から大臣も出たし、その後も豪族として大いに栄え、その支族は山城と播磨(兵庫県)にひろがり、はるかにくだって戦国の大名である土佐の長曾我部元親の長曾我部氏も本姓ハ秦氏ナリとみずから称しており、いずれにしても上代から中世にかけての日本の氏族のなかで、この朝鮮系氏族はもっとも華やかな氏族のひとつであった。


街道をゆく (2)
司馬 遼太郎(著) 
朝日新聞社 (1978/10)
P90


街道をゆく 2 韓のくに紀行 (朝日文庫)

街道をゆく 2 韓のくに紀行 (朝日文庫)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2008/08/07
  • メディア: 文庫

 





DSC_0596 (Small).JPG鶴林寺 (加古川市)



P111
 陵前の芝生にはちりひとつ落ちていない。
 陵にむかって左側の松林の根方に、白い韓服を着た七人の老農夫が野遊びにきていた。
かれらは車座になり、アルマイト製の茶びんを真中において、ときどき茶碗に注いでいる。ゆったりと飲む。韓酒(マツカリ)であった。肴はないがないが、一人ずつ立ちあがっては肩で調子をとり、歌をうたって、互いを愉しませあっている。
「上代にまぎれこんだようですね」
 と、詩人のTさんが声をふるわせて感動してしまった。
Tさんの感動するごとく、韓民族の光陰というものはゆったりと進むのである。
わが倭国にあっては大化の改新のころまではあるいは大和の野辺で存在したかもしれない光陰が、いまこの騒然たる世に、まるでうその光景のように、悠然とこのこの七人の老人の上を照らしているのである。
 老人たちは、白い羅(うすもの)の上衣を、まるで羽衣の芝居のように松の枝にかけている。日本の羽衣説話が、百済人の聚楽の乙女との出会いであったといわれているように、韓人は松の根方で涼をとるとき、上衣を枝にかける。その習慣がこの場の光景を、いっそう芝居のなかの情景のように仕立てていた。
 私は仲間に入れてほしいとたのむと、七人とも弾けるような笑顔をつくって歓迎してくれた。
 七人ともそろって七〇歳以上であり、私の父親ほどの齢であった。それが、親類の息子でも歓待するように全身でよろこんでくれた。
 どの老人も李朝時代を知っている年齢で、日本語はすこしも通ぜず、さかんに慶州の百姓言葉で話しかけてきてくれた。
「日本(イルボン)」からあそびにきたのか」
 しみとおるような笑顔で、ひとりがいった。私がうなずくと、そうかそうか、といったふうに、握手をしてくれた。
イルボンという、このアジアにおける唯一の帝国主義は「併合」と称する支配形式でこの国を三十六年間支配した。
朝鮮人にとって世界中の国名は単に地理的呼称にすぎないが、イルボンというこの発音には、無限の不快さと怨念がこもっているはずである。
 が、この七人の老爺のふんいきからは、そういう感じはまったく感じとれなかった。私はイルボン帝国の時代よりも千年も前へ連れ去られてしまったようであり、筑紫あたりから漂着してきた倭の漁師のような気分にさせられた。


P190
 韓国にあっては、李朝式の儒教によって、十親等までが濃厚な身内とされる。
日本人もおなじく孔子や孟子を読みはしたが、とてものこと、こういう本格派の儒教社会の人間のシガラミというものは理解できない。
~中略~ 人によっては何千何万人ということになり、それに配偶者の十親等までをふくめると、どれほどの数になるのであろう。たとえば見たこともない十親等の年長者が不意にやってきても、
「伯父上」
 として、長者に対する礼をとらねばならず、たいていの韓国人はそういう礼を日常的に実践している。もしその礼に外れれば、人間のクズとして袋だたきにあわねばならない。
 たれかが代官になる。
 すると十親等までの人数が押しかけてきて、商人ならば利権をもらい、学歴のある者ならば官職につけてもらおうとするし、げんにそうなる。もし政府の代官のところへ十親等の伯父がやってきて、
「おれに石油輸入についての利権をくれんか」
とたのんで、その大官がにべもなくことわるとすれば道義論をたてにとった騒ぎになるにちがいない。
 こういう道義主義こそ儒教的体制というものであり、日本人が考えているような朱子学、陽明学というような書物だけの甘っちょろいものではないのである。
 旧中国はこれがために腐敗の巣窟のような体制になり、近代資本主義を興すことができず、結局は毛沢東が、そういう旧原理を吹っとばすだけの力をもった新原理をもちこんでくることによって、奇跡的に国家を新生せしめることができた。
 となると、韓国はどうなるのであろう。十親等的体制をひきずるつつ、もし清新な資本主義を興せるとすれば、親中国とは逆の、つまりまったくちがった意味で世界史の奇跡を演ずることになるのだが、しかし体制人というものはみずからの腹をみずからの手で切ることができるものなのか、どうか。


 

街道をゆく 2 韓のくに紀行 (朝日文庫)

街道をゆく 2 韓のくに紀行 (朝日文庫)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2008/08/07
  • メディア: 文庫

 


朝鮮半島の政治文化は酷薄なものです。南の韓国では軍人でなく金永三氏が一九九二年十二月、全国民の直接選挙で大統領に選出されました。
選挙制度とは政権交代が流血を伴わずに行われるところに利点がある。これで隣国にも民主主義が定着したかと思ったら、金永三はなんと自分の前任者の軍人出身の大統領二人を裁判にかけ一人に死刑の判決を下しました。
 恩赦で死刑を執行しなかったからまだしも穏便にすみましたが、北の朝鮮民主主義人民共和国で新しい最高指導者が権力を確立するためには、肉親も側近も粛清する。その様とどこか一脈通じています。
南の韓国が自国の政治指導者に死刑判決を下すようでは、北の政治指導者が平和統一に応じるはずは絶対にないではありませんか。


日本人に生まれて、まあよかった
平川 祐弘 (著)
新潮社 (2014/5/16)
P165


 

日本人に生まれて、まあよかった (新潮新書)

日本人に生まれて、まあよかった (新潮新書)

  • 作者: 平川 祐弘
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2014/05/16
  • メディア: 新書



P194
東アジアにおいて、日本地域は鉄器の後進地帯であった。鉄器の到来が遅れたどころか、青銅器時代さえもたず、要するにこの島々に住むひとびとは、冶金によって金属をつくって強力な生産力をもつということを知ることなくながい年代を過ごした。
この島々に鉄器時代が到来するのは、弥生式農耕が入ってからのことらしい。さらに鉄器が多量に生産され、普及しはじめるのは、ようやく古墳時代になってからである。
 中国大陸とのあいだに、信じがたいほどの落差がある。
 中国では、殷・周のころにすでに青銅の技術が、こんにちの技術者さえ驚嘆するほどのすすんでいたが、殷の末期ごろ(BC一一〇〇年前後)にはすでに鉄が出現している。
大いに普及したのは紀元前三世紀以後というから、日本における普及は、はるかに降る。中国史での秦・漢帝国という漢民族文化の大爛熟期がおわり、それにつづく三国時代もおわってからのことである。
 だからといって日本人が負(ひ)けめを感ずる必要はないであろう。

P198
 話が飛ぶが、数年前に韓国の農村を歩いていて感じたことは、農具のすくなさである。このことを朝鮮の農業にあかるいひとにきくと、クワならクワという一道具を多目的に器用に使うことによって朝鮮の農家はやってきたというが、古代、朝鮮やあるいは江南からの渡来人によって稲作を教えられた日本の農村にあっては、明治維新前後にはすでに一道具一目的―たとえばタケノコ掘りのみに使うクワといったように―多様な農具を一軒の家で持ちそろえていた。このことは、鉄が多量に安価に出まわっていたことと、直接関係がある。

P220
 李朝(一三九二~一九一〇)は世界中が近代に入っていても―つまり各国が蒸気工場をうごかし蒸気船を走らせている時代に―なお本場の中国よりも模範的な古代律令体制をつづけていた国である。
その制度は土地は原則として古代的な公有制(奈良・平安朝じだいのように)であり、農民は先祖代々耕してきた自分の田畑を耕しつづけて、たとえば日本の平安末期から鎌倉期の荘園の武士のように、他人の田畑までほしがったり奪(と)ったりする欲望は、基本としておこさなかった。
あたえられた田地で充足し、その決まりきった生産力をもって、欲望をふくめた自己表現の限界であるとし、その社会的停滞の大肯定思想としての儒教体制をふかく信じた。
 そのことは、ひとつには、欲望を実現する道具である農具が伝統的に寡少であることによる、というのが、私の妄想なのである。

P224
 李朝が成立した日本の室町時代というのは、乱世である。すでに述べたように、室町期は乱世ながら政治とは無縁に農業生産が飛躍したときであった。それによって商品経済がさかんになり、車借(しゃしゃく)・馬借(馬借)といった運輸業者ができた。
つまりは大きく流通経済が成立した時期なのだが、朝鮮ではそれが成立しなかった。私の妄想では、繰りかえすようだが、李朝以前に鉄器が寡少になっており、このため農業生産高があがることがなかったためによる。
~中略~
 もし仮に朝鮮半島が、日本地域のように多雨の地で森林の復元力が旺盛であったとしたら、古代にあれほどさかんな冶金時代を持った土地だけに、その民族は新田を開発する鉄器をふんだんにもち、多種類で多量な農作物を生み出すに可能な農具をそなえ、ひいては好奇心にあふれ、従って活力に富み、くだって中世においては商品経済が殷賑(いんしん)をきわめ、その市場はたとえば日本の地域の対馬、北九州あたりにもひろがり、ついには資本主義の開幕とともに乾燥せる(仮定)日本地域に強烈な影響―古代がそうであったように―を与えるにいたったであろう。
 この想像をさらにひろげると、朝鮮半島に、その社会に共有される思想としての合理主義や現実主義―ものをありのままとらえる姿勢―もいきいきと生育したにちがいない。
~中略~
 日本の場合、室町期に成立した商品と流通の旺盛な経済は、織田信長という合理主義の権化ような男を作り出したし、江戸期になると商人の世界だけでなく、諸藩の経済思想にまでそれが入ったことが、やがて荻生徂徠や本居宣長のような西洋のそれとと偶然類似した人文科学的思考を生むに至る一因になったと思っている。

街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)


街道をゆく 7 甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみちほか (朝日文庫)

街道をゆく 7 甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみちほか (朝日文庫)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2008/09/05
  • メディア: 文庫


 


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