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村の総代 [日本(人)]

四ヵ浦共有の文書を見たいと私がいい出したら、千尋藻の総代が、「それでは四ヵ浦総代に使いを立てましょう」といってくれたので、のんきにかまえて、ただ「どうもありがとう」ですましてしまった。
ところが使いは小舟にのって湾奥の村の総代の家までいかねばならない。片道一里はある。申しこんでから三時間ほどたって使いがかえり、他の三ヵ浦の総代に連絡がついたと知らせてくれた。地図をひろげて見て大へんな迷惑をかけたことに気がついた。一時間ほどたって三人の総代が船できた。
それぞれきちんと羽織を着て扇子をもっている。夏のことだから暑いのだが、総代会というのは厳重なものであるらしい。


忘れられた日本人

宮本常一 (著)


岩波書店 (1984/5/16)
P17




DSC_0770 (Small).JPG戸上神社秋季大祭

P19
その夜三人の総代はまた千尋藻の総代の家へあつまり、帳簿を帳箱に入れて封印し、夜十二時頃それぞれの浦へかえっていった。
私が聞書を終えて、宿へもどると、渚の方で一声がして松火(たいまつ)のもえるのが見えるので、渚まで出てみると、ちょうど総代たちが家へかえるため船にのるところであった。
私のために二日ほどたいへん迷惑なめにあわされたわけで、ほんとうに申しわけないことをしたが、総代たちに会食の酒代をといって包んだ金も、「これは役目ですから」といってどうしても受け取りもしなかったのだった。
船が出るとき「ご迷惑をかけてどうもありがとうございました」とお礼をいうと、「いや、これで私の役目も無事にすみました」といって月夜の海の彼方へ船をこいでいった。



 じつは江戸時代の村における庄屋の大切さは、もう限りないものです。よく西日本では庄屋、東日本では名主が多いと言いますが、そうとは限りません。地域の呼び名で庄屋、名主、肝煎(きもいり)というふうに言われていました。いずれにしても、この庄屋が優秀で、しっかり働いたから江戸時代の行政ができていました。
 年貢の収納や村の治安維持、そして特に重要なのは年貢の割付といって、村のなかで請け負っている田畑の面積に応じて、きっちりと村民たちに年貢を割り当てて、納めさせることが庄屋の役目でした。また村民に法令を守らせ、人口の調査をやり、戸籍簿の管理にあたることもやっていましたし、村入用という村費を運用し、勧農といって村のなかの道やインフラの整備を行うことなども、この庄屋の世話によるところが大きかったわけです。
 この庄屋が江戸時代の初めには村人との間に、「私を構える」といって、村の費用を横領したり、様々な事件が起きたりしていましたが、だんだん庄屋がうまく機能するようになると、村の行政が回り始めます。江戸時代、兵農分離で空間的に武士と農民が分かれていたにもかかわらず、村を滞(とどこお)りなく治めることができたのは、この庄屋という制度と彼らの能力の高さによるものだったわけです。
 今日でも、日本社会で出世している人、たとえば会社や組織の長になっている人には庄屋出身の人が少なくありません。

「司馬遼太郎」で学ぶ日本史
磯田 道史 (著)
NHK出版 (2017/5/8)
P120



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