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村の寄りあい [日本(人)]

   私にはこの(住人注;対馬の伊奈の村の)寄りあいの情景が眼の底にしみついた。この寄りあい方式は近頃にはじまったものではない。
村の申し合わせ記録の古いものは二百年近い前ののものもある。それはのこっているものだけれどもそれ以前から寄りあいはあったはずである。
七十をこした老人の話ではその老人の子供の頃もやはりいまと同じようになされていたという。ただちがうところは、昔は腹がへったら家へたべにかえるというのではなく、家から誰かが弁当をもってきたものだそうで、それをたべて話をつづけ、夜になって話がきれないとその場へ寝る者もあり、おきて話して夜を明かす者もあり、結論が出るまでそれがつづいたそうである。
といっても三日でたいていのむずかしい話もかたがついたという。気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得のいくまではなしあった。だから結論が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。
話といっても理屈をいうのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである。話に花がさくというのはこういう事なのであろう。


忘れられた日本人

宮本常一 (著)


岩波書店 (1984/5/16)

P16





DSC_0809 (Small).JPG戸上神社秋季大祭

P20
そしてそういう場での話しあいは今日のように論理づくめでは収拾のつかぬことになっていく場合が多かったと想像される。そういうところではたとえ話、すなわち自分たちのあるいて来、体験したことに事よせて話すのが、他人にも理解してもらいやすかったし、話す方も話しやすかったに違いない。
そして話の中にも冷却の時間をおいて、反対の意見が出れば出たで、しばらくそのままにしておき、そのうち賛成意見が出ると、また出たままにしておき、それについてみんなが考えあい、最後に最高責任者に決をとらせるのである。
これならせまい村の中で毎日顔をつきあわせていても気まずい思いをすることはすくないであろう。、と同時に寄りあいというものに権威があったことがよくわかる。

P57
 この寄りあい制度がいつ頃完成したものであるかは明らかではないが、村里内の生活慣行は内側からみてゆくと、今日の自治制度と大差のないものがすでに各村に見られていたようである。そしてそういうものの上に年より衆が目付役のような形で存在していた。ただ物のとりきめにあたっては決定権は持っていなかった。
と同時に寄りあいでのはなしあいには、お互いの間にこまかな配慮があり、物を議決するというよりは一種の知識の交換がなされたようあり、個々の言い分は百姓代や畔頭たちによって統一せられて成文化せられたのである。


タグ:宮本 常一
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