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能島村上水軍 [雑学]

 能島村上水軍は十五世紀後半の戦国時代、能島を要塞に大坂、堺から薩摩、坊津まで瀬戸内海、宇和海全域を支配したとされる。
織田信長と戦っていた石山本願寺に兵糧を運び込むため、織田水軍と激突した木津川口合戦や毛利元就が中国地方の覇者、陶春賢(すえはるたか)と戦い、逆転勝利した厳島合戦の際も、能島から出陣した。
この頃、ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスも能島に立ち寄り、頭領の村上武吉に面会。通行料を支払う代わりに、村上氏の紋章入りの旗を受け取り、航海の安全を保証されたという。
フロイスは著書「日本史」の中で武吉を「能島殿」と著わし、「日本最高の海将」と評価している。


山折哲雄の新・四国遍路
山折 哲雄 (著),黒田 仁朗(同行人) (その他)
PHP研究所 (2014/7/16)
P92

 



 

P109
塩飽諸島は戦国時代に活躍した塩飽水軍の拠点として知られる。島人たちは瀬戸内海という物流の大動脈で情報と交易を操り、操船や造船に長けた技術者集団として歴史の波を乗り越えてきた。
島は朱印状により秀吉が天下を治めた桃山時代から幕末までの約三百年間自治を許され、六百五十人の船方衆の中から選ばれた「年寄」が、島の政治を取り仕切ったのだ。政庁だった塩飽勤番所は寛政十(一七九八)年に建築され、昭和四十五年に国の史跡に指定された。
~中略~
好井さんの説明によると塩飽水軍は関ヶ原の合戦では、一旦、東軍と西軍に分かれたが、家康勝利とみると、いち早く家康のもとに駆け付け、自治権を保証する朱印状を取り付けたという。
「まさに機を見るに敏なる民だすな」
 わが同行者も満足そうな笑みを浮かべている。
「年寄」の権威は重く、島内三か所にある墓石は高さ三メートルを超える。海洋王国として自立してきた誇りを顕示しているようであった。
その延長線上に咸臨丸の水主たちがいる。水主たちは日本人として前人未到の太平洋航海を成し遂げ、幕末から明治へと急旋回した日本を、そこそこ船底で踏ん張り支えたのだ。勤番所には水主たちがアメリカから命がけで持ち帰った品々も展示されていた。

山折哲雄の新・四国遍路 (PHP新書)

山折哲雄の新・四国遍路 (PHP新書)

  • 作者: 山折 哲雄
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2018/02/16
  • メディア: オンデマンド (ペーパーバック)



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