高田屋嘉兵衛 [雑学]
「若衆文化」の根を探る旅は続く。私たちは新神戸駅で待ち合わせ、神戸淡路鳴門自動車道で明石海峡を渡り、真夏の淡路島に江戸時代の豪商、高田屋嘉兵衛の故郷を訪ねることにした。目指すは兵庫県洲本市五色町都志だ。
都志は淡路島のほぼ真ん中にあたる東海岸の港町で沖に小豆島の島影がうっすらと浮かぶ。
山折哲雄の新・四国遍路
山折 哲雄 (著),黒田 仁朗(同行人) (その他)
PHP研究所 (2014/7/16)
P148
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嘉兵衛は十三歳から二十二歳まで「都志浦新在村」の親戚、和田屋喜十郎のもとに通い、働いた。本村と新在村は都志川で隔てられている。橋を渡って新在家に入ると若衆から猛烈ないじめにあう嘉兵衛。司馬氏は「菜の花の沖」の中でこの橋を渡る嘉兵衛の姿に、当時の青年が身を置いた「若衆」の実像をあぶりだしている。
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北海道函館市の北方歴史資料館が発行した冊子「高田屋嘉兵衛伝」によると、文化九(一八一二)年八月、国後沖でロシア軍艦、ディアナ号に囚われた嘉兵衛は、連行されるに際し、嘉蔵ら弟にこんな手紙を書いているとあった。
「異国へ行って良い通訳に出会い、いろいろ交渉したならば北海の険悪な空気も止み、穏やかになるかもしれない。このままでは日本国のためにも良くないのだから、自分は囚われの身となって交渉にあたるのであり、命を惜しいとは思わない。どのような目にあっても捨て身で向かえば大丈夫と思う。幸い、お上(幕府)の立場もよくわきまえているつもりなので、交渉上不都合はないと思う。日本の立場が悪くなるようなことは決してしてない」
同冊子によると嘉兵衛はディアナ号に乗り移る時、書類をすべて海中に投じたが、自給自足のため食料や調理道具、日常品のほか、浄瑠璃本と三味線を持ち込んでいたという。~中略~
外交経験のない日本をたった一人で背負い、ロシアときわどい交渉を切り抜けた嘉兵衛の才覚は、どこで育まれたのだろう。抑留されたカムチャッカでも地元住民からの尊敬され、人気者でもあったようだ。
その要因の一つとして高田屋顕彰館・歴史文化資料館の斎藤智之学芸員は「青年時代、昼間は新在家で仕事をしながら夜は実家のある本村の若衆組に所属したことで、二つの世界を行き来したことになるのでは」と指摘する。
島を抜け出した後は、船乗り、廻船問屋として海と陸に暮らし、いくつもの港を渡り歩いた。つまり、物心つく頃から複数の立ち位置持ったことで、頑として譲らない一点と、柔軟に対応する幅を心得ていた―ということなのだ。
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