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伊豫豆比古命神社 [雑学]

長曾我部(住人注;伊豫豆比古命神社(いよずひこのみことじんじゃ) 第十四代宮司 長曾我部 延昭氏) 「古事記」ではイザナギとイザナミが最初淡路島、次に四国を生みます。
ここで「四国は身一つにして面四つあり」とあり、現在の愛媛県、高知県、徳島県、香川県に男女神の名が記されているわけですが、愛媛は女神「愛比売命(えひめのみこと)」として登場します。愛比売命の夫が男神伊与主命(いよぬしのみこと)です。
 この夫婦神は一旦、お隠れになり夫婦神「伊豫豆比古命」「伊豫豆比売命」として再臨します。
私どもの神社は夫婦神が巡り合った「居相(いやあい)の地」にございますので、いまも町名は「居相(いあい)」と申します。伊豫豆比古命は第七代孝霊天皇の第三皇子にあたります。



山折哲雄の新・四国遍路
山折 哲雄 (著),黒田 仁朗(同行人) (その他)
PHP研究所 (2014/7/16)
P180






伊勢神宮 外宮 (29) (Small).JPG伊勢神宮 外宮







 社家としての長曾我部家は、二十何代かつづいている。
「あの長屋門は、社家としての門ですか」
 江戸時代、門というのは家格の象徴だから許しがなければつくれない。社家の神主はふつう郷士ていどにあつかわれればいいほうだから、すこし大きすぎるように思われた。
「いいえ、医者としての門です。神主であって医者も兼ねていました。私の曾祖父の代までそうでした。漢方ですが」
「藩の医者ですか」
 藩医でも、殿様とその家族を診る者は身分が高く、以下藩士の階級ごとに藩医がいて、足軽の扶持程度の藩医もあり、その藩医の身分によって門の形も変わってくるのです。
 「いいえ、町医でした」
 と、宮司さんはいう。
 町医は、身分は百姓なみえである。その社会生活も、百姓町人と同様、庄屋や町年寄の支配をうけなければならない。苗字を呼称することは黙認されているが、あくまでも黙許であって、つまりは役者の姓と同様、芸名のようなあつかいと考えればよく、正規のものではなかった。だから純粋な町医は門を構えることがゆるされなかった。
 私には、よくわからない。思い直して、
「すると、このあたりの庄屋でしたか」
 と、きいてみた。
 庄屋は百姓側に立っての農村代表だが、その藩でもおおきな長屋門を許している。その理由は、徳川体制になってから身分がひくくなったが、戦国のころは地侍(じざむらい)であった場合が多く、いわば前時代の既得権として、庄屋の門は大きいのである。
「いいえ、このへんの村では庄屋のつぎの家でした」
 といわれる。いよいよわからなくなった。
 ただ町医でも名医の場合、藩がほんのわずかながら名目的な扶持をあたえ、いまでいう嘱託のようなかたちにして士分の待遇をあたえる場合がある。こんにちでも部長待遇や重役待遇の嘱託があるように、藩から上士身分のあつかいをうける町医もありえた。
医者兼社家の長曾我部氏は、あるいはそれであったかもしれない。


街道をゆく (14)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1985/5/1)
P24








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