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伊達家宇和島十万石 [雑学]

 伊達家宇和島十万石は独眼竜で知られる伊達政宗の長男、秀宗から九代宗徳まで続き、明治を迎えた。
藩を築くにあっては仙台藩から武家をはじめ職人、商人なども多数移住したというから、東北の上質な文化が、のどかな西南四国に移住し、濃い歴史を重ねたのである。
空海ゆかりの霊場八十八カ所のある四国は真言宗の寺院が多いが、こと旧宇和島藩領に限っては、伊達家ゆかりの臨済宗妙心寺派の寺院が多く、祭りには旧仙台藩の流れを汲む「八ツ鹿踊り」が受け継がれる。
 伊達博物館は宇和島藩伊達家に伝わる宝物や文書類などを保管する。
 伊達家は諸侯の中でも名家といわれ、八代藩主、宗城(むねなり)は島津斉彬や松平春嶽らとともに幕末の四賢侯に数えられる。飛び抜けた見識と外交手腕で、幕末から明治維新への推進力となったのだ。


山折哲雄の新・四国遍路
山折 哲雄 (著),黒田 仁朗(同行人) (その他)
PHP研究所 (2014/7/16)
P131




伊勢神宮 外宮 (21) (Small).JPG伊勢神宮 外宮

P132
 浦賀にペリー提督率いる黒船が来航したとき、宇和島藩主伊達宗城は、密偵をを放って調査をさせたという。ペリーの顔を絵にした密偵がいたとしてもおかしくないわけだ。
そもそも宗城は幕府のお尋ね者だった蘭学者、高野長英を内密に雇って海岸に砲台を築き、海防に力を入れたほか、身分こそ百姓医に過ぎなかった蘭学者、村田蔵六(のちの大村益次郎)を見出して武士に取り立て、初の国産蒸気船の試作にあたらせた曲者大名なのだ。




P108
 南伊予は、中世の闇が濃かった。
 律令の亡霊のような公卿の西園寺氏を戴きつづけてきたというだけでも平安期の形態である。
大小の地侍(名手)層が農奴を擁しているのも荘園時代の残映が濃い。そこへにわかに近世がやってきたということは、変革というより革命にちかかった。そのため当然ながら南伊予社会をあげての大反発があり、流血があった。
戸田(住人注;伊達氏が宇和島に入る前、豊臣政権下の大名としてここを領した、戸田民部少輔(みんぶしょうゆう)勝隆)が狂人に近い男だっただけに、事態が凄惨になった。
~中略~
「伊予宇和島は、戸田、富田の悪政によって荒れはて、民力の回復はよほど困難である」
というのは江戸城内での常識になっていたから、新領主伊達秀宗のやり方次第では富田氏の轍(てつ)を踏んで改易になってしまうというおそれがあった。
 これについて行政にあかるい者ほど強い緊張感を持ったはずで、その意味でもっとも強い危機感を持って事態を見つめていたのは仙台の伊達政宗であったにちがいない。
 その証拠に、政宗は、長子秀宗の入部にあたって、六万両を貸すのである。

P89
 江戸末期のある時期、蘭学は宇和島といわれたときがあった。わずか十万石の、それも江戸や上方からはるかに離れた南予という僻遠の地でたらしい学問の花がひらくには、それなりの経済の裏打ちが必要であったろう。
藩が一冊二十両、三十両という洋書を長崎や江戸で購入させ、早い時期には高野長英、ついては村田蔵六などの蘭学家を遠くから招聘し、その他、理化学や医学の器械、器材を購入するなど、新学問の育成というのは大変物入りなものであった。
この藩の財政が農業にのみ依存せず、小藩なりの規模で殖産興業と商品経済に力をいれていたことをその裏側の実情として見逃すことはできない。

P101
 伊予の方言は、上方語圏(かみがたごけん)になる。
 ただし宇和島だけはちがっていて、アヅマ方言が微妙に混入しており、いまでも宇和島の高校を出て大阪へ就職する人はすぐ大阪弁になり、東京へ就職するとごく自然に東京弁になるといわれている。
このふしぎさは、伊達氏の人数が一挙してこの地方に入り、支配層を形成したことが唯一の原因であるという。
 風習も仙台の民俗で宇和島もそれを共有しているものが多い。仙台ふうの七夕祭や鹿(しし)踊りなどがそうである。

街道をゆく (14)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1985/5/1)





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