その意識を捨ててしまえ [哲学]
趙州和尚と厳陽尊者とのやりとりである。
厳陽「一物不将来の時いかん」
趙州「放下着」
厳陽「已(すで)に是れ一物不将来、這(こ)の什麼(なに)をか放下せん」
趙州「恁麼(いんも)ならば則ち坦取し去れ」
これで「解った」というならもう完璧だが、一応意訳してみよう。
厳陽「私は一物も持っておらず、心も無一物の状態なのですが、さあてどうしたもんでしょう」
趙州「捨て去ってしまえ」
厳陽「捨てるたって老師、私はもう一物も持っていないって申しあげてるじゃないですか。いったい何を捨てるんですか」
趙州「それなら担いでゆけ」
お解りだろうか。趙州和尚は何を担いでゆけと言ってるのか。
答えは、「一物不将来」という意識なのである。
妄想を払うことは洗濯に似ている。煩悩の汚れを落とすのは大事なことだが、濯ぎこそもっと大事なのである。
「無一物」状態であっても、「無一物」という意識が残っていたら石鹸臭い。それこそ「鼻につく」というものだ。
そんな臭い意識を、担いで帰れと、趙州は言っているのである。
禅的生活
玄侑 宗久 (著)
筑摩書房 (2003/12/9)
P124
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