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雑草として生きる [人生]

 地上の植物には人間社会との関わり方から見て、二つの種類がある。作物と雑草、または、植木と雑木である。
 前者は、耕作者が育ちやすいように用意した土地に種蒔かれ、耕作者の庇護のもとに育ち、やがて実りをつけて刈穫られ、耕作者の用に供される。その生涯はすべて耕作者によって管理され、計画的人工的に予定のコースを歩まされる。
 これに対し、後者の雑草・雑木は、人工的に種蒔かれることなく、自ら芽生え、自ら育つ。生涯、人間の関心と注目を集めることもないのが多い。中には刈り穫られて飼料や作物の肥料にされることで人のために役立つこともある。ごくまれな例だが、自然に生え育った雑草・雑木であるが故に、人工的な育成以上に珍重がられるものもある。
 だが逆に、耕作者の意に反して耕地のなかで繁茂し、憎しみを買い弾圧を受けることもある。
雑草にとって、人間の役にたつか憎しみを買うかは、重要な違いではない。いずれにしろ、雑草の成長は耕作者の予定外のことであり、雑草にとっても不本意なことであろう。
 この世の人間にも、社会体制との関わりにおいて、同じような二分類ができる。いわば体制の作物的人間と雑草的人間である。
 作物的人間は、有力な親や先輩によって育ちやすく耕された環境に植え付けられ、その庇護のもとに苦労なく優れた教育を受け、親譲りの資産や地位を肥料として既成の体制のなかで、ぬくぬくと伸び、やがて人々の期待通りの秀才となって機能を発揮し、自らを育成した耕作者、つまり現体制のために役にたつ。
 幼少期から未来が約束されている良家の子女や有力者の子弟、またはその養子や女婿(じょせい)など「プリンス」といわれる者がそれである。その典型は累代作物人間を続けて品種改良された門閥たちだ。欧米の言葉でいうエスタブリッシュド(確立された階級)がそれに当たるだろう。

歴史からの発想―停滞と拘束からいかに脱するか
堺屋 太一(著)
日本経済新聞社 (2004/3/2)
P68



DSC_5448 (Small).JPG柳の御所


~中略~
 こうした品種改良の純粋作物のほかにも作物人間はいる。まだ一人前に育たぬ前に実りよい将来を見越して選別され、保護育成の対象に加えられた人々だ。
 欧米人はこれを、多少の皮肉と軽蔑の意味をこめて「選ばれた人」、つまりエリートと呼ぶ。本格的なエスタブリッシュドのいない日本では、このエリートが作物人間の主流をなしている。
 累代の育成で品種改良を経ていないエリートは、いわば促成作物だ。その代わり、選別競争に勝ち抜くために幼少期から厳しい矯正を受けねばならない。おそらく、受験勉強がそれだろう。
~中略~ 
 しかし、耕され肥料を置かれた豊かな土地での競争はあくまでも作物同士の争いである。耕作者が勤勉有能である限り、彼らは雑草の侵害からは守られている。そして、ここで勝ち抜くものは、常に耕作者によって選ばれたもの、つまり既成の体制のお気に入りたちである。
~中略~
 当然、伸びすぎるエリート、個性的なエリートは間引き捨てられる運命にある。作物の田畑で生き残りを実をつけるエリートは、平均的な優良性と秩序に対する従順さを持っていなければならないでのである。
 これに対して雑草・雑木の世界は全く違う。ここでは耕作者の庇護は全くない。彼らは品種としても個人としても、耕作者、つまり耐性によって選別されたわけではない。~中略~
 当然、雑草が生き続ける実ることは、作物よりも難しい。世の人間どもがエリートに選ばれようとして幼少期からあくせく受験勉強をするのは当然である。
 しかし、雑草には雑草の楽しみと誇りがある。雑草の世界の競争は、作物社会のそれと全く異なっている。自らの力だけを頼りに生き残り実ればよいのであって、耕作者、体制の気に入られようとする必要はない。
 雑草は、自らの個性と意志と実力を思う存分発揮することができるし、限りなく巨大になることも可能である。それ故、雑草は、エリート作物の持つ呼息さと従順さを必要としない。/p>




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