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活力と冒険心の戦国時代 [雑学]

 一五世紀末から一六世紀の最後に至る百余年間の日本の歩みには、同じ時代の西欧のそれに相似したところが少なくない。
だが、我々の史家は、この時代を「戦国時代」と呼び、文明の発展と経済の成長よりも群雄割拠の乱世を印象づけてきた。
それは、相似た社会を「文芸復興」と名付けた西欧の史家とはあまりにも対照的な態度である。
生来の平和民族であり、世界に類がないほど平和な歴史を持つ日本人には、この時代の戦乱の多さが、文化の発展や経済の成長よりも衝撃的に思えるためであろう。
 一六世紀は、日本の歴史のなかでも最も記憶されることの多い時代だ。この時代こそ、講談、映画、テレビドラマのテーマとなるべき劇的な人生と事件の宝庫である。
だが、我々の史家と作家と芸人とが、この時代の英傑と活動についてあまりにも多く語り過ぎたが故に、その背後にあった文明の進歩と経済の成長とは忘れがちである。
特に戦後は、戦争の悲惨さを強調することが流行したため、この時代の輝かしき発展とこの時代に生きた人々の幸せが、全く無視されているかの観さえある。
 だが、この一方的な―「文芸復興」を礼賛する西欧史家のそれとは正反対の―「戦国時代」観は、我々二〇世紀に生まれ育った日本人から絶好の歴史的教材を失わせるものでもある。


歴史からの発想―停滞と拘束からいかに脱するか

堺屋 太一(著)
日本経済新聞社 (2004/3/2)
P36



伊勢神宮 内宮 (78).JPG伊勢神宮 内宮

P55
 秀吉薨去(こうきょ)の翌年(一五九九年)、徳川家康と前田利家ら四大老五奉行との間に紛議が生じたとき、家康が放った急便は丸二日間で伏見から江戸に着く。
それを受けて江戸を発進した榊原康政指揮の徳川軍七千人は三日間で東海道を駆け抜け、四日目の未明には近江の瀬田に現れている。
また、その翌年、関ヶ原合戦の直前に、石田三成ら奉行衆の招きで上京した毛利輝元は、一万七千人もの大軍を率いて安芸の広島から大阪までたった四十時間で漕ぎわたって来る。いずれも、江戸末期の二倍以上という驚異的な速度である。
 自由競争社会の「戦国時代」は、それほどに人間の活力と精神力が高揚していたのだ。
ちなみにいえば、「戦国時代」の日本人男子の平均身長は百六十五センチぐらいだった。
幕末維新の頃は百五十八センチというから、昔のほうがよほど大きかったわけだ。バイタリティ-のあふれた時代には、人間の身長も大きくなるものらしい。

P57
 一六世紀後半、堺や博多などの商人は、中国、高麗、琉球はもとより、遠くルソン、シャム、マラッカ、バダヴィアへも進出していた。
一六世紀末にはこれらの地域に相当な数の日本人居住者がおり、時には一つの政治軍事勢力ともなった。
台湾でオランダ人を撃破した浜田弥兵衛、シャム王の軍事顧問となった山田長政らは、よく知られた例だが、それ以外にも公私の武装勢力が多数あったらしい。
オランダ側の記録によれば、「日本人海賊シヨコ」なる者は二万人もの配下を率いて、バダヴィア城を攻撃したという。
 日本商人の用いた船舶は、ヨーロッパのそれほどに大きくはなかったが、機動性と集団行動に優れ、鉄砲と刀槍を持つ浪人と水夫(かこ)で武装されていた。
一六世紀後半の日本人は、大航海時代のヨーロッパに劣らぬ武力と活力と冒険心の持ち主だったのである。

P64
 実は、この庶民層にまで広まっていた活力と冒険心こそ、技術と経済と文化とを大成長させた真の源泉であった。
つまり、旧い社会体制が打ちくだかれた結果、誰にでも成功の機会があり、どこにでも稼ぎの可能性のある自由競争社会が生まれた。




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