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応仁の乱 [雑学]

 さて、日本の歴史のなかで、「応仁の乱」ほどわかり難い事件はない。
原因も各地の戦闘経緯もよく呑み込めないし、決着も不明確だ。しかも、記録はすべて文学的粉飾と中性的誇張に満ちている。
一般には、この乱は、当時の中央政権であった足利幕府の将軍位継承争いに政権内部の有力者たちの権力闘争が絡んで大戦争に発展したもの、とされている。
 伝えられるところでは、東(細川方)西(山名方)に分かれた両軍は、それぞれ京洛内に陣をはり、一時は各々十万余の大軍を集めたという。
しかし、今日その故地を見るに、とてもそれほどの大人数が長期滞在できるほどの面積ではなさそうだ。当時の交通輸送路から考えても、それだけの人数とそれを養うに必要な兵糧とが調達できたとも思えない。要するに、古書の伝える記録は統計的に信頼できるものではないのである。
 だが、ここではそんなことはどうでもよい。重要なのは、この大乱の結果、足利幕府の統治が実質的に終焉したという事実である。
それは、単に時の政権が倒れたというのではなく、中世的統治機構そのものの崩壊であった。その意味で、「応仁の乱」は、徳川幕藩体制を消滅させた幕末維新の動乱と類似した歴史的意義を持っている、ともいえるだろう。
~中略~
 ただしこの二つの時代の間には、旧体制のあとに強固な統一的統治政権ができたか否かの点で、決定的な違いがある。

歴史からの発想―停滞と拘束からいかに脱するか

堺屋 太一(著)
日本経済新聞社 (2004/3/2)
P38


DSC_5364 (Small).JPG滝ノ観音寺

P46
 こうした旧体制の崩壊から群小勢力の抗争と淘汰・糾合、そして勝ち残った大勢力同士の決勝トーナメントと歴史が進行する背景には、技術と産業、経済と文化の広範かつ急激な進歩発展があった。というより、技術の進歩と経済の高度成長があったからこそ、これだけの変化と闘争が起こり続けたのである。



タグ:堺屋 太一
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