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日本隣国の領土論理 [国際社会]

 すべて十七世紀のことである。
 冒険心に富んだコサックの隊長が配下をつれてやってきて、古来、シベリアに住んでいたアジア人を発見する。~中略~
かれら原シベリア人が抵抗すればそれこそ戦闘がおこなわれるが、普通、そうではなかったらしい。
 シベリアの森林で狩猟、河川漁労、遊牧あるいは粗放な農業を営んでいた古アジア人ともいうべきひとびとは、闘争心が強くなく、それにヤクーツク人のように農業をやっていた連中をのぞいては生活形態の点からいっても、土地所有の観念が薄かった。
「これはおれたちの土地だがら、お前たちロシア人はどこかへ行ってくれ」
 と主張した連中は、案外すくなかったのではないか、曠野の人であるからむしろ外来者に対して人懐こかった。
~中略~
 シベリアの地域地域を発見したかれらコサックたちは、まず堡塁を築いて原住民の襲撃に備えるのが、常だった。
~中略~
 なんのために(住人注;毛皮を)差し出すか、という理由はどぎついばかりにハッキリしている。新大陸にやってきた白人もそうであったように、シベリアにやってきた堡塁のロシア人も、高度の殺人技術をもっていたためであった。
かれらは引鉄をひけば雷のような音を発して人を斃(たお)す機械を多数もっていた。それが理由のすべてである。
 さらに滑稽なことには、
「納税民を載せている土地は、すなわちわが王朝の所有(もの)である」
 という思想が、古来あったことだ。ロシアにも中国にもある。かつてこのシベリアの広大な部分を所有していたモンゴル帝国にもそれがあった。
~中略~
要するにシベリア人の側からいえば、黒貂の毛皮を税金としてとりたてられることは、自分が走っている土地も取り立て側の所有になったということなのである。
~中略~
あたらしい中国は、バイカル湖以東の地域はかつて中国領であった、とする。
それがアイグン条約(一八五八)によりソ連領にされたことを不満とし、これをあらためて解決する用意を怠らずにいる。中ソ不仲の主要要素の一つは領土問題である。
 かつて清朝のころ、黒竜江畔に住む狩猟民族の首長がしばしば清朝に貢物をもってきた。
貢物をもってきたということはつまりは中国の領民であり、かれらの住む土地はとりもなおさず中国の属領である、という解釈になる。
貢物とはおそらく毛皮、とくに黒貂の毛皮であろう。
黒貂の毛皮を差し出しにゆく酋長は、その毛皮が後世、大国の論理の上でどれほど重大な意味をもつかは、むろん思いも寄らなかったにちがいない。
「お前は黒貂の毛皮を持ってきた。であるから、お前と黒貂が棲む土地はおれのものだ」
という大国(複数)の理屈は、庶民レベルでは子供の遊び仲間でも通用しない。
ところが国家間の対立の感情や論理は、近代から現代にくだればくだるほど、ときに子どもの遊び仲間以下の内容になる場合がある。


街道をゆく (5)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/10)
P34


街道をゆく 5 モンゴル紀行 (朝日文庫)

街道をゆく 5 モンゴル紀行 (朝日文庫)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2008/09/05
  • メディア: 文庫




 






P68
 ロシアの場合、海よりも、陸路による東漸のほうが早かった。コサックたちが堡塁をつくっては原住民を惨殺しつつ押し進み、ついにオホーツク海に達したのは一六三八年である。
海へ押し出すことは、ずっと遅れた。一七二八年にベーリングが、北太平洋探検隊を組織し、ベーリング海峡を通過した。かれはデンマーク人だが、雇傭主は、ロシア皇帝だった。
ベーリングの配下のスパンベルグ中佐はさらに南下し、一七三九(天文四)年、日本の沿岸を、ロシア帝国の官憲としては最初に望見している。
日本側でいえば八代将軍吉宗のころで、まさに鎖国下の泰平の絶頂ともいうべき時代であった。
このときスパンベルグ中佐は奥州牡鹿郡の漁村に上陸し、水の補給をうけた。この間、僚船のワルトン大尉の船が大風に遭い、房総半島まで流されて、そこで同様、漁村の者から薪水の補給をうけた。
 この二隻の露船の接岸という事実は、日本の要路の者の強迫観念を刺戟し、とくに鎖国下の憂国的な海防論者たちに対し、その後長期にわたり、暗い刺戟をあたえつづけるのだが、一方、ロシアにあってはこれは朗報であった。
このあかるい刺激のもとに、イルクーツクにおいて、ロシアの東への意志のあらわれである航海学校がひらかれるということになるのである。東への意志というのは、具体的にいえば日本へという要素も入っていた。ロシアはこの時期において、早くも日本が視野のなかにうかんでいた。


P38
 明治六(一八七三)年に西郷隆盛が主唱して廟議にやぶれ、下野した征韓論というのは、戦略的にはシベリア出兵であった。
~中略~
西郷は、江戸期からはじまったロシアのシベリアにおける活動に対してつよい警戒心を持ち、かれの征韓論構想もそれが核になっていた。かれにとって朝鮮が目標ではなかった。目的は黒竜江沿岸から沿海州への進出にあり、そこに屯田兵の一大強堡をつくればロシアの南下をふせぐことができるというものである。
かれはシベリアにおけるコサックの活動について、当時としては最高といっていいほどの知識をもっており、日本もまたその形態をまねればよいとするもので、それには壮齢の者だけで三十万といわれる失業武士を当てる、というものであったらしい。


P215
 ジンギス・カンといえば。この旅行中、私はモンゴル人に対し、この人物の名前を出さぬように気をつかっていた。
 モンゴル人にとって、かれらの民族を大統一した英雄であるだけでなく、世界中のだれもが、いまなお驚嘆と戦慄をもって記憶しつづけている名前なのである。モンゴル人にすればこの名前を公然と誇りたいにちがいないし、それができないのは、つらいことに相違ない。
 が、浮世の義理というものだ。
 ソ連人が、これを嫌がるのである。公式的には、ソ連人は、モンゴルのジンギス・カンというのはあれは侵略者だ、だからこれはいけない、という。
 しかしソ連邦のなかのロシア共和国では、帝政時代の―つまり大侵略時代の―英雄的な皇帝や、シベリアの原住民を征服していったコサックの勇敢な酋長たちに対して公式な理解と尊敬が払われている。そのソ連がモンゴルに対してのみジンギス・カンを禁じているというのは、片手落ちのような感じもする。


P217
 秦ノ始皇帝を偉大であるとした毛沢東氏はそれよりも前に、
「ジンギス・カンこそ、モンゴル民族の統一をなしとげた偉大なる人物である」
 と評価し、ソ連の強力な影響下にあるモンゴル人民講和国にむかって宣伝した。この表明はたしか一九六〇年前後だったと思うが、民主主義的な一部モンゴル人の心を大いに動かしたらしいことはたしかである。
 ソ連におけるロシア人が、十三世紀初頭にユーラシア大陸を征服した英雄を、人類史における害獣のように憎むのもむりはない。
 ジンギス・カンが樹てたモンゴル帝国が、ロシアを征服し、「タタールのくびき」という言葉でもわかるように、ロシアの農民や牧畜者を搾木でしめあげるように搾取したからである。
 モンゴル人がやってくるまで、ロシアには有史以来国家らしい国家がなかったことを思うと、ロシアというのはひどく若い国であることに驚かざるをえない。
ロシア人は民族国家を形成する前に、東方の征服者によって国家―キブチャック汗国―を体験させられたのである。
キブチャック汗国の国家機能はモンゴル貴族を富ませる目的のために存在し、被支配者であるスラヴ人は搾取されるためにのみ存在した。
 モンゴル貴族は広大な農地を私有し、その農地にはスラヴの百姓が農奴として付属していた。
この単純きわまりない国家構造は、その後のロシア人による帝国に、遺伝のように相続された。
帝政ロシアおける貴族と農奴の関係は、古くからごく自然に民族国家として存在している日本人にとって、知識ではわかっても実感としてはわかりにくいところがある。
~中略~
 ともかくも、ソ連はジンギス・カンをはなはだ憎む。
 滑稽なほどに憎んでいる。ところが、不幸なことに、モンゴル人民共和国の政治家たちが、このソ連人の感覚に鈍感だった時期がある。
 一一九六二年に、国家をあげてジンギス・カン生誕八百年という大記念行事をやってしまった。
 ソ連政府がどのように激怒したかは、こまかくは私にわからない。が、ともかくもモスクワの逆鱗に触れて、自粛のかたちとはいえ、モンゴル人民共和国の政治局員一人が追放されてしまった。
 国家事業として大記念行事をはなばなしくやったくせに、その責任者の追放と時期を同じく、国家をあげてジンギス・カンの侵略を批判するようになった。
 ―あの男はまだジンギス・カンを批判していない。
 という批判がまかり通る暗い時期がつづいた。以後、ジンギス・カンという名前はこの国家にあっては禁忌(タブー)になった。


街道をゆく 5 モンゴル紀行 (朝日文庫)

街道をゆく 5 モンゴル紀行 (朝日文庫)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2008/09/05
  • メディア: 文庫
 



佐藤 そして(住人注; イスラエルのネタニヤフ首相の官房長を務めた知人が)続けて、こうも言いました。
―ただし、世の中には旧来型の戦争観をもっている国がある。戦争の勝者には、歩留まりはいろいろだけれども、戦利品を取る権利がある。そう思っているのが、ロシアであり中国であり、イランだ。ウクライナもそうだ。
民主主義国は、極力戦争を回避して外交によって解決しようとする。ところが戦利品が獲れるという発想を持つ国は、本気で戦争をやろうとする。すると、短期的には、戦争をやる覚悟をもっている国のほうが、実力以上の分配を得る。これが困るところなんだ―


新・戦争論 僕らのインテリジェンスの磨き方
池上 彰(著), 佐藤 優(著)
文藝春秋 (2014/11/20)
P79




新・戦争論 僕らのインテリジェンスの磨き方 (文春新書)

新・戦争論 僕らのインテリジェンスの磨き方 (文春新書)

  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2014/11/20
  • メディア: 単行本




 現在、日本はアメリカと中国に挟まれているが、いずれの国も、違った意味ではあるが、非ウェストファリア国家である。アメリカは相手の総力を抹殺するまで戦いをやめない本能があるし、中国は対等の主権国家関係が理解できない。


日本人だけが知らない「本当の世界史」
倉山 満 (著)
PHP研究所 (2016/4/3)
P219






日本人だけが知らない「本当の世界史」 なぜ歴史問題は解決しないのか (PHP文庫)

日本人だけが知らない「本当の世界史」 なぜ歴史問題は解決しないのか (PHP文庫)

  • 作者: 倉山 満
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2016/04/03
  • メディア: 文庫




P9
 ただ、これだけは冒頭にいっておきたいことですが、ちかごろ気づかわしいことは、
「北方領土」
 とよばれる島々を返せ、という国内世論の盛りあげ運動のことです。たしかに国際法的には、狭義の北方領土(歯舞・色丹と択捉・国後)は古くから日本に属し、いまも属しています。
固有の領土であるということは、江戸期以来のながい日露交渉史からみても自明のことです。
 一九五一年(昭和二十六年)の対日講和条約で、千島列島と南樺太についてのすべての権利を放棄しました。しかし放棄された千島列島のなかで、右の四島については日本の固有領土であるため、これは含まれていないという解釈は動かしがたいものだと思いますが、現実にはソ連領になっていますし、これについてソ連は別の解釈をもち、問題としてはすでに解決済みだとしています。
 日本国政府がこれを非とする―私も非とします―以上、政府はこれについての解釈と要請を何年かに一度、事務レベルでもってソ連の政府機関に通知しつづける―放棄したのではないということを明らかにしつづける―ことでいいわけで、あくまでも事は外交上の法的課題に属します。これをもって国内世論という炉の中をかきまわす火掻き棒に仕立てる必要はなく、そういうことは、無用のことというより、ひょっとすると有害なことになるかもしれません。


P11
もしソ連が、無償で―無償などありえないことですが―北方四島を日本に返還するようなことがあれば、それとおなじ法解釈のもとで、多くの手持ちの領土を、それはわが国の固有領土だと思っている国々に対しても返還せねばならないというというりくつがなりたちます。それが仮に単なるりくつであるとしても、いったんソ連領になった「領土」を、もとの持主に返すようなことがソ連の首脳部がおこなうとすっれば、おそらく国内的にかれらはその地位をうしなうことになるでしょう。


P12
ともかくも、ソ連の首脳部にとって、返還など、無理難題を越えたほどのことだということを、私どもは成熟した国民として理解しておく必要があります。
日本における返還運動が、そういうことをわかりきった上でなお国内世論だけ盛りあげて反ソ気分を煽ろうとしているのなら、日本国をやがては損ずる結果になるだろうと思うのです。


P44
ロシアにとって、日本はその広大なシベリアを保有するために必要―もしくは必要だという熱っぽい幻想―があったということを、十九世紀までのこの隣国を思うときに考えざるをえない。さらにいえば、日本はそのロシアの熱望にろくに応えたことがない。
~中略~
 カムチャッカ付近は、いまもむかしも低気圧の墓場なのである。日本近海で吹きとばされた廻船が、しばしばカムチャッカ付近に漂着したため、江戸後期は、一面では漂流民とその送還にともなう外交軋轢の時代となった。
 帝政ロシアは、日本に対し入念な態度で接近した。まずロシアは漂流民を通じ、日本の地理、社会制度、経済、文化、言語を国家的意思で研究し、かつ日本と国交をひらくためにその糸口としてしばしば漂流民を送りとどけもした。
これに対し、江戸期日本は偏執的なほどに頑固だった。鎖国が国是であるということで、そのつどつめたくあしらい、ロシア側に不快の感情を味わせつづけた。くりかえすが、ロシアはシベリア開発のために、日本から食料を得たいのである。そのために日本を研究し、漂流民を優遇し、その末に日本政府と正規の国交をもつことを願った。この望みは、じつに執拗だった。


P79
 日本についていえば、ロシアが、地球上にこの島嶼(とうしょ)国家があるということを知るのは、じつに遅かった。
 はじめて日本を情報として知ったのは、一六七五年に清国に使いしたニコライ・スパハリーという官吏である。
清国の隣接の国々をきいたとき、その知識を得た。日本では、水戸黄門(水戸光圀)の在世時代である。
しかし右のスパハリーの報告書よりもはるかに詳しい内容を示すものとして、前記、カムチャッカの征服者であるアトゥラソフの報告がある。
かれは、一六九九年、カムチャッカで、原住民の捕虜になっている一人の日本の漂流民に会い、その口から日本についてきいた。ただし、日本という国名でなく、「エン([江戸)」
 という国名だった。漂流民は、伝兵衛といった。大坂の谷町の質屋「万九」の若旦那で、商売の修業のために他家に奉公し、江戸から荷を輸送中、暴風に遭ったのである。
船とともにカムチャッカまで流され、仲間は原住民のために殺されたり逃げたりした。伝兵衛は彫りのふかい顔をしていたのか、アトゥラソフは「エンド人はギリシア人そっくりである」といい、「礼儀正しく理知的」であったという。伝兵衛は日本国の皇帝(将軍)の宮殿や、富などについて語った。
 この大坂の若旦那はロシアの官吏によって優遇された。モスクワへつれてゆかれ、ピョートル大帝にも拝謁し、さらにピョートルの命令でイルクーツクに最初の官立日本語学校をひらいた。~中略~
 伝兵衛に日本語学校をひらかせたのも、コズィリョフスキーという乱暴者に千島列島の探検をさせたのも、ロシアの中軸部が日本というにわかに知った一文明圏への関心のためであった。
 当時のロシアの日本への関心は、清国に対すると同様、領土にはなく、シベリアの産物を日本に売り、日本から食料を買い、シベリア開発を容易なものにしたいというところにあった。(このことは、いまも一貫してつづいている。シベリアが存在するかぎり、この関心はたえることなくつづいていくにちがいない)。
 ロシアが中国や日本に領土欲を持たなかったのは、帝政時代のこの国の国家習性とかかわるもので、人口も多く、統治がととのっている国に軍隊を派遣しようとしなかったしまた遠征を可能にする条件ももっていなかった。かれらがシベリアに食いつき、それを略取したのは、それが容易だからだった。その地が小単位の原住民の小社会が散在していて統一がなく、いわば道に落ちているものwひろうようのしてとることができたためであった。
 ついでながら、ロシアが西方に膨張する場合も、相手の弱り目につけ入るという出方が多く、国力を傾けるほどの力をあげて侵略したことはなかった。ロシアはシベリアという、本国よりもはるかにひろい領土を得てしまったために、ここから得る利益と、その大きな陸地をかつぎつづける重さに耐えるべく、さまざまな内政、外政の手段を講じた。
かれらが日本という、見たこともない国に関心をもったのは、あくまでもシベリアという大きな陸地の維持と開発のためであった。


P82
 日本の江戸期の国内経済が最高潮に達した時期である一七六七年(明和四年)、ついにコザックの百人長チェルヌイという人物が、逃げだした千島原住民を追って第十九島である択捉(えとろふ)島までやってきた。~中略~
 その北の第十八島ウルップ(得撫)島には、その後三年経った一七七〇年、ヤクーツクの毛皮業者プロトジャコーフがやってきて、土地のアイヌをつかってラッコを獲った。
アイヌたちはこの奴隷労働をきらい、ついにその翌一七七一年、反乱をおこし、ロシア人二十一人を殺した。その後も、千島におけるラッコ獲りがつづいた。
 これらのことは、松前や江戸の役人や知識人を動揺させた。
「赤蝦夷風説考」
 という、ロシアの南下を警告する上下二巻の本が出たのは、右のウルップ島でのアイヌの反乱からわずか十年後の江戸においてである。~中略~
 著者の工藤平助(一七三四~一八〇〇)は、歴史上無名に近いが、すぐれた人物として記憶されていい。人間としておもしろく、また江戸中期以後の知識人の一典型ともいえる。
 平助はもともと紀州人で、紀州藩の藩医の子であった。その聡明をみこまれ、仙台藩伊達家の江戸詰の藩医工藤丈庵の養子になり、江戸に住んだ。医者の実子がかならずしも医学修業に堪えられる資質をもっているとはかぎらないから、この時代、幕府の官医や諸藩の藩医のあいだでは、同業の次男、三男で資質のいい者をさがし、養子にすることが多かったのである。


P88
 本書(住人注;赤蝦夷風説考)は、オロシヤや赤蝦夷の言語、文学、歴史、そして多生の経済現象などをのべている。そのほか、ひろい読みしてみると、ロシアが日本を侵略するということについては、否定的である。~中略~
おそらくオランダ人から長崎経由で入ったロシアのシベリア征服観に相違なく、オランダ人をふくめた当時のヨーロッパ人の平均的な考えがよくあらわれている。


P90
 蝦夷錦などについては、幕府は目をつぶっていた。
 が、コザックが、工藤平助のいう、「赤蝦夷」がカムチャッカを征服したころから別の商品経済の流れが北方にできあがった。
千島アイヌが、仲介者として活躍するようになった。大坂を本拠とする商人が、コザックの必要とする食糧(米や酒)を千島にもってゆき、コザックから蝦夷錦などを手に入れ、大阪の市場に出すようになったのである。
 工藤平助は
 ―いっそ長崎におけるオランダと同様、北方に開港場をつくり、ロシアとも正規に交易したほうがいい。
 という旨のことをその著の中でのべている。達見というべきで、もし、早期にロシアと交易関係を持っておれば、のちに松前や江戸の政府を震撼させたようなロシアとの相互不信を因とするトラブルはなかったかと思える。
しかし、ロシアとこの時期に親しまなくて、かえってよかったともいえなくはない。平助のいう前記のようなロシア人のやり方からいえば、とんでもないこともおこりうる。
 ついでながら工藤平助のこの著は公刊を目的として書かれたものではなかった。幕府の内々の希望によって書かれた。
 ときに田沼意次の執政時代の晩期で、田沼とその側近のあいだでは、なにか後世に語り継がれるような大きなしごとをしたいという気分があった。


P92
 意次はこの書物に大いに触発され、大いに予算をさき、組織的な北方探検団を派遣した。この探検団のうちの、卑役であった最上徳内や間宮林蔵の業績によって、右の用人の希望どおり、この「仕置」は意次の用人の希望どおり、「ながき代」に記憶されることになった。 カムチャッカを征服したアトゥラソフとその後輩たちの多分に粗暴な活動が、日本史に痛烈な反作用をおこさせた。対外的におよそ鈍感な政権であった江戸幕府が、めずらしく過敏に反応したのである。


P95
 帝政時代、すでにふれたように、シベリアの軍隊、役人、毛皮採集業者はたえず飢えていた。とくに穀物と野菜不足になやまされつづけた。壊血病がシベリア病ともいうべきものだった。
 こういう病的な状態の中で、日本の発見こそ、この難題の解決に曙光(しょこう)をもたらすものでなくて何であったろう。
 ロシアは興奮した。
 シベリアにおける食糧問題は解決する、とロシアの政治家たちはよろこんだ。シベリア接している日本から食料を買おうではないか。幸い日本は農業国家だという。ロシアの政治家にとって、日本は、パンとキャベツの倉庫にみえたのにちがいない。
 ロシアは、日本に接近したかった。しかし、日本は鎖国しているという。どうすれば、日本と交渉できるか。
~中略~
この夢が実現すれば、恒常的な欧露からの輸送難と現地の食料(とくに穀物)不足がほぼ解決するのである。さらには、シベリアの現地で獲れた毛皮を、地理的にもっともちかい文明国である江戸期日本国に売れば、よりいっそうすばらしい。貿易は、双方に幸福を生み出すべきものではないか。
 この妙案は、帝政ロシアにとって、歴世の課題になった。
 余談ながら、この場合、難は日本側のみにあった。この点について帝政ロシアは鈍感だった。
江戸期日本が厳重な鎖国体制下にあるという政治上の問題をのぞいても、純経済的に日本に毛皮の需要などもともと存在しないということを知らなかったか、知ることを重要としていなかった。


P175
 ことに江戸期の日本は世界の文明国の歴史のなかで、類がすくないほどに非武装の国であった。たとえば、クルーゼンシュテルンは、カラフトを見、そのアニワ湾の日本施設を実見して、その無防備におどろいているのである。
 蓋(けだ)し、日本人は如何なる種類の武器も欠いてゐるから、反抗の考へすら起らぬに相違ない。
 とも書いている。そういう日本国がわざわざカムチャッカ半島の一寒村まで攻めてくるはずがないではないか。でありながら、ロシア側はそこに砲兵隊を駐屯させて毎日訓練している。まことに防衛意識の過剰さというか、病的としか言いようがない。
辺境の港には小さくとも要塞設備をほどこすというのが、当時のヨーロッパにおける防衛上の常識であったとしても、ロシアの場合、原型として過剰なほど大砲がすきで、無用なほどに防衛本能がつよかったことを思わせる。むろん、いまもこの遺伝病はつづいている。


P246
 ロシア史においては、多民族の領土をとった場合、病的なほどの執拗さでこれを保持してきたことを見ることができる。
 これらは、感情のうえでは、千島列島は対日参戦という血であがなったものだと信じている。(むろん、そういうばかなことはない)。
 日本が、政治主導による国民運動などをしているぶんには、彼の国は、日本はそれを流血でもってとりかえすつもりかなどということを、ある種の政治的感情でもって考えかねない体質をもっている。
 ―やる気なら喧嘩を買ってもいい。
 という考え方を伝統的にとってきたロシアが、日本と北方四島返還さわぎにのみ例外を設ける保証などどこにもない。
 こんにちのソ連政府としては、千島列島とモンゴル高原とが、ヤルタ協定においてセットになっているぐらいのことは知っている。また、中国人は日本の北方領土返還運動に同調することがソ連に対してどういう意味をもつかについても、むろん中国人以上に知りぬいている。


P247
ロシアが、二十世紀のある時期からソ連と呼ばれるようになり、国の体制もかわったが、外政上の原形にはかわりがない。
ソ連には、シベリアがある。そのそばに、日本の島々が子をえがいている。日本が引っ越しすることができないかぎり、この隣人とうまくいきあってゆくしかない。


P257
 ともかくも、日本とこの隣国は、交渉がはじまってまずか二百年ばかりのあいだに、作用と反作用がかさなりあい、累積しすぎた。国家にも心理学が適用できるとすれば(げんにできるが)、このふたつの国の関係ほど心理学的なものはない。
つまりは、堅牢な理性とおだやかな国家儀礼・慣習だけでたがいを見ることができる(たとえば、デンマークとスウェーデンの関係のようになる)には、よほどの歳月が必要かと思われる。


ロシアについて―北方の原形
司馬 遼太郎 (著)
文藝春秋 (1989/6/1)




ロシアについて 北方の原形 (文春文庫)

ロシアについて 北方の原形 (文春文庫)

  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2017/04/21
  • メディア: Kindle版




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