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モンゴル [国際社会]

人民共和国の正史においては、二十世紀前半の日本がモンゴル人民共和国にとって最悪の悪者であったということである。たしかにそうだった。
しかし同時に思うのだが、その二十世紀前半において、当時、”外蒙古”といわれたこの国で、日本人という生きものを現実に目撃したモンゴル人は、何人いたろうか。概していえば、絶無にちかかったのではないか。
 モンゴル人がなまの日本人を大量に見たのは、戦後ウランバートルに日本人捕虜がきたのが最初だったにちがいない。その一万数千の不幸な日本人にとっても、モンゴル人を大量に見たのは、両民族の歴史の規模でいえば、十三世紀に博多湾へいわゆる「元寇」がおしよせてきて以来、最初のことである。
 要するに。十三世紀と二十世紀のある期間をのぞいては、長い日蒙の歴史の上で交渉はまったくなかった。

街道をゆく (5)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/10)
P137P



 

伊勢神宮 内宮 (211).JPG伊勢神宮 内宮

P154
 日本で流行している歌が愛されるというのは、言語生理の関係が大いにあるであろう。
 日本人にとってモンゴル語学習というのは、日常会話程度なら、東京の人間が古い津軽弁か古い薩摩弁を習う程度の努力で十分だと思われるのである。
テニヲハという膠(にかわ)で単語をくっつけてゆく膠着(こうちゃく)語であるという点でどちらもおなじだし、発音も子音の多い朝鮮語ほどむずかしくない。
 こういう言語生理の中から出てくる歌は、たとえばモンゴルにも追分や御詠歌にそっくりな節まわしの古い歌があることを思うと、メロディとしてどうしても似てくるのではないか。

P187
モンゴル語では見渡してあおあおとした大地をハンガイと言い、一方、漠然と見れば茶褐色にみえても地面に目を近寄せると、まばらに短い草が生えている土地をゴビという。つまりゴビという言葉は砂漠という内容をあらわさない。
「草の育ちの悪い砂礫地」というほどの意味である。純粋の砂漠というのはモンゴル高原では存外すくないというが、しかし私が窓から見おろしている大地はどうみても磽确(ぎょうかく)たる不毛の地帯で、火星の地表といわれてもあるいはそうかとおもえるほどの凄みがある。

P192
「ここが、南ゴビです」
と。ツェベックマさんがいった。
 なるほど、白い包が十七個か、十八個ほどかたまっている。彼女のいうところではすべていまのところ空室で、鍵でもって開けて入るのだそうだ。私どもの宿舎がそれで、どの包でも好きな包に泊まってもらう、というつまり、私どものホテルである。正確にはウランバートルホテルが経営している包なのである。
 飛行機はどんどん草原をすべって、包の群れの前に停止した。飛行機が横付けになってくれるような宿舎は、世界中のどこにもあるまい。
~中略~
天の一角にようやく茜がさしはじめた雲が浮かんでいる。その雲まで薫っているのではないかと思えるほどに、匂いが満ちていた。
「これは、何のにおいですか」
 と、ツェベックマさんをふりかえった。彼女は馴れているせいか、私の質問をちょっと解しかねる表情をした。が、やがて、
「ゴビの匂いよ」
と、誇りに満ちた小さな声でいった。
 人さし指ほどの丈のニラ系統の草が、足もとでごく地味な淡紫色の花をつけている。それがそのあたり一面の地を覆い、その茎と葉と花が、はるか地平線のかなたにまでひろがっているのである。
 その花のにおいだった。空気が乾燥しているため花のにおいもつよいにちがいなく、要するに、一望何億という花が薫っているのである。
「羊の好物」
と、ツェベックマさんがいった。このとき彼女の一人娘のイミナが、レニングラード大学の最初の休暇で帰ってきたときに言ったという言葉を、私はおもいだした。
「よその国の草は匂わない」という。うその草のようだ、と彼女は言い、卒業したらまっすぐにモンゴルへ帰る、モンゴルが世界のどこよりもいい、といってその母親をよろこばせたというその感想を、私はゴビ草原へきてやっと理解できた。

P231
 モンゴル人はとびきり客好きだし、とくに旅人が好きである。むかしからモンゴルの風習として、見知らぬ旅人が来れば何はともあれ食事を出してくれるし、泊めてもくれる。家族がぜんぶ包を出払って外出するときは、留守中に旅人が来た場合のことを考えて、ご馳走を台の上にならべておく。
旅人はぬっと入ってきてそれらを飲み食いし、そのまま出て行っていい。これらの心遣いというのは草原の掟といってよく、いまも昔もこの遊牧社会をささえてきた精神要素のひとつなのである。


 ホテルはゲル。中国ではパオといい、いわゆるモンゴル民族伝統のテントだ。レストランもゲル。バス、トイレも小さなゲルだ。
 夕刻、ウォツカと馬乳酒を持って丘に登った。満月だった。月は皓々(こうこう)と輝き草原は蒼茫(そうぼう)の海。
月明かりが驚くほどに眩しく蒼い。呑むほどに意識は模糊とし、月は蒼みをます。草はさらに蒼く燃える。
 すると朦朧とし消えかけた意識の彼方から馬が一頭近づいてきた。馬上には民族衣装を着た男。男はわれわれの酒宴の丘に登り馬をとめた。ぼくが無言でウォツカを差し出す。
男は無言でひと口呷(あお)ると、表情ひとつかえずに立ち去った。
 月はいよいよ高く、盛夏とはいえ冷涼なモンゴルの空気に研ぎすまされたような凄味が加わる。
 やがて、ホジルトの集落から一群の男女が溢れ出てきた。次から次へと湧き出てくる。老若男女、子供から老人までが幾組にも分かれ、それぞれが横一列に腕を組み談笑しながら歩いている。
 遠ざかる意識のなかで丘を下り一群に近づくと、ぼくは一人の老人に話しかけた。
「散歩をしているのです。美しい満月の夜をこうして楽しむのです」 
 悠久の大地に住む悠久の時を生きる人々のスケールに気圧されるように、その晩のぼくは完璧に酔いつぶれてしまった。

自然の歩き方50―ソローの森から雨の屋久島へ
加藤 則芳
(著)
平凡社 (2001/01)
P68











 この(住人注;モンゴル)高原はシベリア低地に北部を突き出して大きく隆起する高燥地で、草原(ステップ)もあれば、緑のゆたかな山地(ハンガイ)もあり、半砂漠(ゴビ)もあるといったふうに、動物が自然に依存して繁殖するために神が与えたような遊牧の適地である。高原の平均標高は一五八〇メートルで、広さは、ヨーロッパの半ば(フランス、スペイン、ポルトガル、イギリス本国をあわせたほど)はある。
さきに、神が与えたような、といった。モンゴルでは絶対のものとして、神よりも天(テングリ)がある。かれらの天についての概念と信仰が、古代中国の思想を成立させたと私は思っている。
 モンゴル高原は、遊牧にとって天恵の高原であるために、古来、ここに巨大な遊牧帝国ができた。~中略~
かれらの膨張に活力をあたえつづけたのは、近代のように火薬でもなく、また動力としてのエネルギーでもなく、草だった。巨大な高原をおおっている草こそ、動物を殖やし、人口をふやした。
遊牧帝国は農業帝国よりはるかに安あがりだし、農業よりも自然破壊がすくない。
 そのモンゴル高原の広大な平坦部(南部にゴビ砂漠をふくめる)が外蒙古である。
現在の政治チリでいえばモンゴル人民共和国であり、ふるくは匈奴以来の遊牧帝国の主要領域である。
この高原は南―中国側―にむかってゆるやかな降り勾配になっているが、その南斜面の降り勾配の部分がいわゆる内蒙古であり、現在の中国領モンゴル自治区である。

ロシアについて―北方の原形
司馬 遼太郎 (著)
文藝春秋 (1989/6/1)
P185






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