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愛染明王 [見仏]

 愛染明王は空海がはじめて請来した金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経一巻によって作られたもので、人間の愛欲などの煩悩が菩提心、即ちほとけの心に通じるものであることを教えるものである。
愛の神であるキューピットのもっている弓と矢をこの明王ももっていることは、東西の愛の表現の根源が一つのものであったことを示す。
 仏教は禁欲の宗教であると考える人も多い。しかしそれは悟りへの厳しい道程における戒律の一つとしてきめられていることである。
人間の理想的境地を自覚する宗教としての仏教は人間を否定するような禁欲に徹したものではないと考えられる。そこから即身成仏の考えが出発するといってよい。
知性も本能も円満に発達した人間の正しい生き方に徹するのが即身成仏への道である。愛染明王像はこの意味を象徴しているのである。

続 仏像―心とかたち
望月 信成 (著)
NHK出版 (1965/10)
P87

DSC_5369 (Small).JPG滝ノ観音寺

P89
 今までわれわれは、如来と菩薩の像を見てきた。如来はすっかり仏になった仏像、菩薩はこれから仏になろうとする仏像、いずれにしても、お顔はあまり変わらない。
深い思索を示すかのようなすんだ眼、そしてまっすぐな知性を表わすととのった鼻、そして慈悲にみちた微笑の口もと、完成したお顔であり、静かに永遠を見つめるお顔である。
しかし、これからわれわれが考察しようとする明王は全く違う。
それは怒った顔なのである。そこに支配するのは、静かなる瞑想ではなく、荒れ狂う情熱であり、おだやかな慈悲ではなく、はげしい怒りなのである。
 フリードリッヒ・ニーチェは人間の精神を二つに分かった。アポロ的精神とディオニソス的精神、アポロ的精神とはじっと物を観る精神、造形芸術の精神、ディオニソス的精神とは、猛り狂う精神、音楽の精神である。前者が、静かにものの本質を眺める冷静な精神であるならば、後者は、生に対する陶酔におどり狂う熱狂の精神である。
~中略~
 明らかに明王は、バラモン教(後のヒンズー教)の産物である。そしてバラモン教は躍るシバ神などの像に見るように、生の歓喜と恍惚を歌う宗教なのであろう。密教の隆盛と共に、このバラモン教の神が仏教にとり入れられる。
ディオニソス的なものが、アポロ的仏教の体系に組み入れられる。
われわれは、明王という像を、このようにアポロ的仏教精神の中にとり入れられたディオニソス的ヒンズー的精神として理解することが出来るであろう。


タグ:望月 信成
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