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楠木正成 [雑学]

  楠木正成は、戦前の日本歴史の最大のスターであった。彼を祭った神戸の湊川神社の前を汽車や電車が通過するとき、乗客は直立して最敬礼した。
尽忠報国の手本として礼賛され、筆者の世代は彼を見習って天皇陛下のために死ねと教え込まれた。
 敗戦とともに、それが逆転した。無駄死にした馬鹿者のようにいわれて、ほとんど忘れられてしまった。~中略~
 だが、真実はそのどちらでもない。

大阪学
大谷 晃一 (著)
新潮社 (1996/12)
P118



DSC_1702 (Small).JPG吉野ヶ里遺跡

P118
 ときは中世の半ばにさしかかっている。政治の実権は、東国にある鎌倉幕府の手にあった。政策の基本は、土地とそこから取れる米にあった。農業が中心である。
ところが、摂津・河内・和泉をはじめとして西国では早くも商業が起こっていた。
~中略~
 運送業者は賊にそなえて武力を持っているときには強盗を働くこともあった。実力で関所を打ち破った。彼らは政治に従わず、ともすれば世の中の秩序を乱す。くり返されるそんな騒動に、幕府は手を焼いている。だから、幕府や領主たちから悪党と呼ばれた。その時代からは進んだ人たちである。
 古いわくにとらわれない知恵と行動力を、彼らは持っている。でないと、商人は生き残れない。情報がどんなに大事で、どう利用したらいいかも知っていた。
 河内の玉櫛の散所太夫こそが、楠木正成であった。悪党の親分である。

P121
「よっしゃ、やったるか」と、この河内男は立ちあがった。元弘元年(一三三一)の九月である。数え三十八歳だった。~中略~
後醍醐は飾り物天皇とは違った。有能多才で、野心に燃えている。この際、政治の実権を幕府から朝廷へ取り戻したい。幕府打倒の兵を挙げたが敗れ、京都を脱出して笠置山にこもった。坂東の強兵からなる幕府の大軍が迫っている。幕府の強大さを恐れ、名のある武士はやって来ない。心細さが身にしみる。「金剛山の西に、心が猛(たけ)くすくよかで、弓矢を取って名を得たる者がいる」という。身分などはない賤しい悪党である。しかし、この際はそんなことは言っておれない。「はせ参じよ」ということになった。
 幕府の時代錯誤の政治で、民衆の心は離れている。執権の北条高時は暗愚で、その内情は乱脈をきわめる。「こら、いけるで」と読む。彼は時代を見通す知恵と思い切りのいい勇気を合わせ持っている。後醍醐天皇の招きに応じて、笠置に駆けつけた。

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 足利尊氏が関東の大軍をひきい西上する。新田義貞は箱根で大敗して逃げ帰る。尊氏は京都を占領した。が、北畠顕家の奥州軍が到着し、後醍醐方は息を吹き返す正成は智謀をめぐらせ、悪党らしい得意のゲリラ戦をくり広げた。尊氏は敗走し、九州へ落ちる。だが、たちまち勢力を盛り返した。その大軍が九州から攻め上がってくる。味方の総大将の義貞は力も人気もなく、心もとない。
「これはとても防ぎきれないでしょう。ここは和睦すべきだと思います。その使者に私がなりましょう」と、正成は涙を流して申し上げた。臆病風に吹かれたとか、足利と通じているとか、と公家たちは冷笑した。先の見える者、平和論者の宿命である。

P128
 わずか数百の楠木勢は、二万を越える敵の中に完全に孤立した。だが、五時間も戦い抜く。
しかし、正成は一族二十八人とともに死んだ。いまの湊川神社付近といわれる。数え四十三歳だった。延元元年(一三三六)五月二十五日であった。
 そのあと、尊氏は京都を占領した。後醍醐は叡山に逃れねばならなかった。もっとひどい形勢のもとに、正成がいっていた通りになった。 先見の人の悲劇は終った。

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 驚くべきことに、その生き方や考え方が現在の大阪人の性行にあまりにも似ているのが分かった。正成親子は大阪人の先祖といえる。
それを育てたのも、大阪の風土であった。




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