緒方洪庵 [雑学]
大塩の乱で焼けた北船場の焼け跡に、緒方洪庵があらわれた。あくる天保九年(一八三八)だった。
二十九歳の若い医者である。彼は備中の足守藩士の家に生まれた。足守は、いま岡山市に入る。だが、体が弱いので武士をあきらめ、医学を志す。初めて大坂へ来たのは、十六の年だった。蘭学者の中天遊のもとへ弟子入りした。江戸へ出たり、長崎へ留学したのち、再び大坂に落ち着いたのである。
瓦町で開業し、大いにはやる。同時に蘭学者として名声が高まり、弟子志望が多い。そこで、適塾を開いた。「自分の心に適(かな)うことに従い、楽しめばいい」という洪庵の考えで名付けたが、学問にも教育にもこれを貫く。
患者も弟子も増えて手狭になり、過書町に移った。いまの中央区北浜三丁目である。天保十四年(一八四三)だった。
天下の英才が集まって来た。福沢諭吉、大村益次郎、橋本佐内、長与専斎、佐野常民らであった。近代明治をつくった人びとである。
入門帳に記された弟子だけでも六百三十六人に上り、実際は三千人を超えたという。
大阪学
大谷 晃一 (著)
新潮社 (1996/12)
P178
P180
文久二年(一八六二)に、彼は江戸に呼ばれて将軍の侍医と西洋医学所頭取になった。西洋医学所は東大医学部の前身である。
行くのがいやだったが、断れなかった。しかし、宮仕えと関東の風土が体に合わず、翌年に肺患のために死んだ。五十四歳だった。最後まで、自由な大坂を懐かしんでいた。
適塾の建物はそのまま北浜に残り、当時の面影を伝えている。大阪大学が管理し、観覧が許されている。
司馬さんは、「二十一世紀に生きる君たちへ」の兄弟編とも言える「洪庵のたいまつ※2」というエッセイで、軍人でもなければ政治家でもない、英雄でもない一人の人物―緒方洪庵を紹介しています。
自身が西洋の医学を学ぶばかりではなく、西洋の医学や言葉や考えを多くの弟子たちに教え、日本の明治を開くことにつなげた人物です。洪庵は、灯したたいまつの火をひとつずつ弟子へ―大村益次郎や福沢諭吉、橋本佐内※3、大鳥圭介※4といった人たちへ移していきます。
司馬さんは、真の愛国者というのは緒方洪庵のような人物だと思っていたにちがいありません。
この国がうまくいくように、自分で考えて行動し、他人に共感性をもって、人命を救うことに生涯をささげた人です。
幕末の日本ではコレラがはやりました。コレラ治療に取り組む医師は、ひどいときは三人に一人、四人に一人が死んだとされます。治療にあたった洪庵は「事に望んで賤丈夫(せんじょうふ)(心の卑しい男)となるなかれ」と言い、さらに「世のため、人のため」と常に口にして、掛け軸にも残しました。
「司馬遼太郎」で学ぶ日本史
磯田 道史 (著)
NHK出版 (2017/5/8)
P180
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