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サバニ [雑学]

 恩納のの仲泊から美里の石川まで、島の幅がこの辺ではわずかに三十町しかない。大昔、神がいまだ草木をもってこの国を恵まざりしころ、東海の波が西海へ打ち越し、西の波はまた東へ越えたと伝えるのは、あるいはこの近所のことかも知れぬ。
今でもサバニと称する小さな刳船(くりぶね)だけは、人がかついで陸の上から往来し、遠く辺土名喜屋武(へんとなきやん)の岬を廻る労を避けている。
内地の府県で船越という多くの地名はいずれもかつてこの方法によって、小舟を別の海へ運んだ故跡である。島尻郡の方にも玉城(たまぐすく)村富名腰(ふなこし)がある。
また同じ郡の佐敷村、八重山石垣島の伊原間(いばるま)などに、フナクヤという地名があるのは、皆この船越のことだろうと思う。
 近いころまでのサバニは、みな国頭の山の松の樹を刳って造っていた。
糸満の漁師たちは遠く屋久島の杉を買い求めて、おいおいにその船を改造し、なお鱶(ふか)の脂を船と船具とに塗って水を防ぎ、飽くまでも軽快に海上を馳駆しようとしている。
しかも山のよい樹は次第にとぼしく、真の丸木舟はもうほとんど見られなくなった。
刳舟の縁にも他の材を綴じつけて形を作り、その隙間を白い漆喰で留めている。よってまた綴じ船の名もあるのである。

海南小記
柳田 国男 (著)
角川学芸出版; 新版 (2013/6/21)
P65



DSC_1795 (Small).JPG天草

P66
 遠い国地の珍しい文明を、まず見てくるものは船であった。それゆえに最初は蒲葵の帆を掛けてシナの物見の役人を驚かした島人も、久しからずして福州あたりの造船所に依頼して、新しい立派な進貢船を造らせ、次では那覇の船大工がその型によって、大きい船を工夫するにいたった。
淋しい山原の磯山蔭で作り出す船が、西南数百里の外を走っているシナのジャンクと、このようによく似てきたのも偶然ではなかった。
しかもその改造のさらに以前をさかのぼってみると、島人は出でて新しい物を求めんがために、とにかくみずから渡海の船を思っていたのである。
 島では人よりも船のほうが早かったわけである。しかるに八重の汐路の先島においては、アマミコが碧空より降ったという神話はもうなくて、かえって船の始めの物語が伝わっている。
竹富島では島仲粟札志の幼き兄弟、ある日浜に遊んで形半輪の月のごとくなる物が、海上に漂い来るを見て、木を伐ってその制にならい、初めて船というものを作り、これを五包み七包みと名づけて浜に浮かべて楽しみとした。
その玩具の小船、後にまた流れて隣の黒島に行き、黒島の人はこれを大きくこしらえて、漕ぎ乗って竹富にやって来て、初めて子供たちの神から学んだ術であったことを知ったとある。
 同じ話の変化かと思う話を、また宮古島の仲間御嶽にも伝えている。







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