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山崩 [言葉]


「土砂災害」という言葉は江戸時代にはない。古文書を検索するにはキーワードが必要である。歴史的に、土砂災害が、そのような言葉で表現されてきたかを、まず抑えておかなければならない。
 筑波大学の西本晴男教授の「土砂移動現象及び土石流の呼称に関する変遷の研究」によれば、「山崩(やまくずれ)」という表現は古代からあったという。土石流のほか、地震、火山噴火による災害にもこの用語を使った。
江戸時代になると、土石流現象を表わすのに「山崩」のほかに「山津波」「山潮」という言葉が生まれた。「地すべり」「泥流」は比較的新しい言葉で、大正・昭和初期にならねば、国語辞典に登場しない。
「土石流」は一九一六(大正五)年、東京帝大の砂防工学教授・諸戸(もろと)北郎が翻訳造語した可能性が高いが、「鉄砲水」などとともに、使用が一般化したのは、昭和になってのことらしい。


天災から日本史を読みなおす - 先人に学ぶ防災
磯田 道史
(著)
中央公論新社 (2014/11/21)
P80



天災から日本史を読みなおす - 先人に学ぶ防災 (中公新書)

天災から日本史を読みなおす - 先人に学ぶ防災 (中公新書)

  • 作者: 磯田 道史
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2014/11/21
  • メディア: 新書








P91
土砂崩れがおきそうな場所は歴史が教えてくれる。自治体や鉄道会社は事前に手を打っておいたほうがよい。


P92
「あの広島の土砂崩れ現場の古文書を見直しておきたい」。悔しさを胸に、私は浜松から新幹線に乗り、東京都立中央図書館で、八木地区に関する古い記録を探した。まず八木が広島市に合併される前の自治体史「佐東町史」を見た。
「本町の扇状地は、背後に急斜地を持つことから、幾度もの土石流が重なって形成されたと考えられる。角ばった巨礫を多く含み、斜面の途中に突き出た段丘が見られる(中略)が、これは土石流の原型といえる。
段斜面は、現在県営住宅を中心とした宅地化が進み、平坦化されている所もある。(下略)。そう書いてあり、住宅地にありありと残る土石流のあとの竹やぶの写真が掲載されていた。
 土石流が繰り返され、現物が残っているすぐ脇に、県営住宅などの団地を建設していったことが、地元の町史には、はっきり書いてあった。
八木地区の団地造成は、一九三七(昭和一二)年に三菱重工広島製作所の従業員団地の造成を相談されたことから、始まった。そして、高度経済成長期には、グリコや雪印の牛乳工場の誘致とあいまって、団地化が急速に進んだ。 この時代の日本人は技術と経済成長の信者であった。
自然はコントロールできると、人間の優位を驚くほどに信じた。土砂崩れにしろ、原発事故にしろ、この時代の思想のツケを後代の我々は、いま払っている。
 この地の領主が「自然に勝てる」と思いはじめたのは、戦国時代のことであったらしい。
前近代には土砂崩れは「蛇崩れ」「蛇落」などといい、大蛇の出現になぞらえられた。


P94
広島藩の地誌「芸藩通志」によれば、「八木」は平安中期の「倭名抄」(和名類聚抄)に「養我(やぎ)とある古い地名である。この八木村の土地台帳「地ぶり帳」(一七六二〔宝暦一二〕年をみると、上楽寺(上楽地)という字(あざ)がある。
そういう名前の寺があるからだが、気になるのはこの地にある観音堂が「陀落地観世音菩薩堂」とよばれ、さらに、近所に「蛇王池大蛇霊発菩薩心妙塔」と刻まれた碑が立っていることだ。
この碑自体は新しいものだが、土砂崩れをおこす大蛇の霊を祀ってなぐさめ、菩薩心をおこさせて、村の安寧を祈ってきたさまが想像される。蛇王池は、香川勝雄が退治した大蛇の首が飛んで落ちた地だという。



天災から日本史を読みなおす - 先人に学ぶ防災 (中公新書)

天災から日本史を読みなおす - 先人に学ぶ防災 (中公新書)

  • 作者: 磯田 道史
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2014/11/21
  • メディア: 新書




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