SSブログ

毛利高慶 [雑学]

  全国的にはあまり知られていないが、これ(住人注;和歌山県の広村(現在の広川梃)にヤマサ醤油の七代目・浜口儀兵衛が築いた広村堤防)よりもさらに約一五〇年前、九州で長大な津波堤防が築かれていた。
大分県の佐伯に二万石の小さな大名がいた。この家は奇妙なところで堤防に縁があった。もともと森氏といった。森高政というのが当時の当主の名である。
高政は羽柴(豊臣)秀吉に仕え、中国地方の大大名、毛利輝元と戦ったのだが、このとき世に名高い備中高松城水攻めに参加した。低湿地に築かれた敵城のそばに堤防を築き、水没させたあの戦いである。~中略~
残された高政の家臣や黒田官兵衛には、秀吉から密命が与えられたとも伝えられる。
「もし毛利軍が信長の死を知って背後から攻めてきたら、水攻め堤防を切れ」。そうすれば、水が氾濫して、毛利輝元軍の追撃を遅らせることができる、というのである。~中略~
 この毛利高政が佐伯藩の藩祖であるが、宝永四(一七〇七)年一〇月四日、六代藩主・毛利高慶(たかやす)の時、宝永津波が佐伯を襲った。佐伯毛利家は水軍で有名。海に近い浦方を拠点にしていた。
そのため佐伯の城下町は三・五~四メートルといわれる津波の被害をまともにうけた(羽島徳太郎「九州東部沿岸における歴史津波の現地調査」)。
 六代藩主が驚くべきリーダーシップを発揮したのは、この時であった。津波の直後、城下町全体を防潮堤で護ることを決意した。なんと被災一七日後から着工。二ヵ月の突貫工事で、新堤防一・三キロを含む総延長約四キロの防潮堤を完成させた。
藩主高慶みずから現場に出て工事を督励。動員された労働者はのべ三万四七九三人に達したという。
 赤穂浪士もそうだが、おおむね一七〇〇年頃までの近世武士は行動的で決断が速かった。しかし平和が続き、世襲が重なると、近代武士は次第に行動が格式張ってきて「機能的」でなくなる傾向が見られた。幕末頃になると、むしろ民間の活力がすばらしく、浜口梧陵のような民間の篤志家が防潮堤建設などという公益事業でも活躍する姿がみうけられるのである。

天災から日本史を読みなおす - 先人に学ぶ防災
磯田 道史 (著)
中央公論新社 (2014/11/21)
P74




DSC_6244 (Small).JPG臼杵石仏


タグ:磯田 道史
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント