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人間学 [教育]


 真に新しいものは、必ず古いものから生まれるのでありまして、突如として出るものではない。たとえば鎌倉時代に新宗教ができたといっても、道元にしても、法然にしても、親鸞にしても、日蓮にしても、まったくなにもなかったところに初めて彼らの新仏教を開いたのではないのであります。~中略~
幕末維新の人物といっても、これまた徳川三百年間の儒教、国学から出ているのであります。真に伝統に立つことによって初めて新しい何物かが生まれるのであります。

知命と立命―人間学講話
安岡 正篤 (著)
プレジデント社 (1991/05))
P38



DSC_1962 (Small).JPG旭川市旭山動物園

P72
自然科学は物質の化学反応を起こしてやっておるのだから「人間科学」即ち哲学、信仰というものは、人間をいかようにも化すことができなければ学問ではない。
その学理に従って人間を指導してゆくのが教育だ。だから教育というものに非常な使命がある。
自然科学が尊厳ならば、人間哲学、信仰というものはさらに尊厳である。それを応用して立派な人間を作ってゆかねばならない教師というものは最も神聖なものだ。
「教師は労働者である」などというのは、なんと弁解しても、浅薄な思想というよりは、非人道的な思想である。

P94
 幼少年時代によく教育すると、十七、八歳で立派に人として大成する。
幕末、明治の人物はみな若くしてよく出来ている。二十代で堂々たる国士だ。吉田松陰、橋本佐内、高杉晋作、久坂玄随、こういう人々は枚挙にいとまがないが、みな二十歳前後で堂々たるものです。
どうしてあんなに若いのに大した人が多いのだろうと思っていたが、人間学といゆものを本当に研究してみると、あれは決して奇跡ではない。当たり前のことなのです。
人間は教育よろしきを得れば、知命、立命の教養を積めば、その人なりに大成する。
それから先はいろいろの経験が加わって鍛錬陶治され、いわゆる磨きがかかるだけで、人そのものは十七、八歳でちゃんと出来る。満十五、六歳で元服の礼を行った昔の人は、近代の科学的研究からみても実に正しい、妥当であるということが立証されている。








タグ:安岡 正篤
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