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正覚を成ずる [宗教]


もっと限定して、もっとはっきりと、どこに仏教徒という仏教生活というものの内容を求むべきであるのか。
ところでこの点に思い及ぶと、私の考えるに、これは仏教生活というものの本質を、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)という名題に置いたらよいと思うのである。
これは正覚(しょうがく)ということであるが、詳しくいうと阿耨多羅三藐三菩提とは無上である。三藐は正に当たり、三菩提は覚というのに当たると言ってよい。~中略~歴史的に言うと、仏が菩提樹下において体験した正覚というのが、仏教を通じて主なる潮流をなしているのである。
~中略~
この正覚というものが、中心思想の流れをなしているのであるが、これさえ調っておれば、仏教の教理というものを―四諦とか十二因縁というようなものを知っておっても、知らなくても仏教生活をなしているところの人であると、こう言い得ることができると思う。これがもっとも肝心要なところなのである。

禅とは何か
鈴木 大拙
角川書店; 改訂版 (1999/03)
P41


新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫)

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  • 作者: 鈴木 大拙
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/01/25
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DSC_2227 (Small).JPG風のガーデン

P43
それでたとえば真宗というものは、他力というか、また極楽往生というか、念仏というか、いずれにしても、釈迦の正覚ということを離れたように説かれている。
それは如来の本願を説く、そしてわれわれのような罪のあるものは、その本願に救われて助かるのであると、こう言っている。しかしながら、しかもよくその経典に表れたわの本当の意味を考え及んでみると、それは必ずしも極楽に行くということが、真宗の目的ではないのであって、真宗の究極の目的はというと、やはり正覚を成ずるというところにあるのである。私はそう信じている。
すなわち正覚を成ずるということが、この世は穢れた世である、自分の業はなかなか深い、重い、これを自分だけでは背負いきれぬだけの業を背負うている身体なのである。
こういう体であるからして、この世では正覚を成ずる訳には行かない、そこで弥陀の本願を頼む、そして極楽へ往ってから、正覚を成ずるということになっている。

P65
 小乗教でその理想としておったかの羅漢というものは、これは自分に対するだけの修行であって、それでは人に及ぼす力がない。仏教も人に及ぼす力のないというものであったらそれは、独りよがりのものであって、本当に人間として完全な発達を見られたものという訳にはゆかない。
人間ということになれば、自分というものと、他ということとの関係から成立しているものであるから、自分だけの正覚を成じたのではいけない。
~中略~
 それで羅漢ということになれば、自分だけ独りでよい、すなわち座禅ならば、座禅するに深山に引き込んで、どこかの森の中でじっと座禅しておってよろしい。けれども、菩薩ということになると、その座禅だけやっているのではいけない。世間へ出て働かなければいけない。人のためになることをしなければいけない。人も導かなければならないということになるのである。
それで菩薩という思想およびその理想が発達して来た。


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