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日本国内の「南北問題」 [日本(人)]


 明治政府は意識的に”朝敵連盟”を疎外したのであろうか。残念ながらそれを明確化する資料を私はまだ手に入れていない。だが「あまり手ひどく痛められ過ぎた。そのうえ賊軍というハンディを負った。何しろ僕らのころまで長岡出身者は軍人になっても出世しないと言われたもんだから。必然的に”ひとひねり”した反骨精神も生まれたのだろう」という農林官僚出身の小林市長の言葉は、「朝敵差別」が全く根拠のないものではないことを示しているであろう。
だが、彼らがそう思ったことが、本当に事実であったか否かは別として、近代化を急ぎかつ資本不足に苦しむ明治以降の日本が、投下資本の最も効率のよい地点に投資し、政府の開発投資、インフラストラクチュアの整備もそこに重点が置かれて行ったことは否定できない。藩閥政府には「薩長だからといって特に出身地を優遇したワケではない、その証拠に薩と長が特に経済的に優位にあるわけではないではないか」という言い分はあったであろう。だが、投下資本の最も効率のよい地点となればそれは否応なく暖国の太平洋岸になる。
七メートルを越す積雪に交通網がズタズタになる地域がまず開発の対象になることは、朝敵か否かに関係なく、経済性という点から見ても、あり得なくて当然であろう。と同時にこの積雪は生産的な労働を不可能にする。
一方、新しい開発地点は多重の臨時的労働力を必要とする。特に機械化が進まず、シャベルとモッコとトロッコの時代には人海戦術にならざるを得ない。この労働力の需給関係は、徳川時代からあった出稼ぎをますます盛んにし構造化し、暖国政治はこれを当然とする。
~中略~
これが明治以来つづいて来た構図であった。彼らは高度成長の下積みで最も苦しい労働に服しながら、その恩恵は受けなかったが、これになんらかの「責任を感じた」暖国人もいない。
これを無視して地球の南北問題を論じ、「後進国の貧困は先進国の責任」であるとのきれい事を口にしている者は、彼らには偽善者としてしか見えないであろう。この点に暖国人は全く無関心・無感覚である。
 だが出稼ぎ人の立場から見れば”暖国人”が感じないこともはっきりと感じられ、これへの暖国人の無感覚が逆に一種の怨念のようになってきても不思議ではない。

「御時世」の研究
山本 七平 (著)
文藝春秋 (1986/05)
P29


DSC_2514 (Small).JPG出雲大社

P52
確か司馬遼太郎氏は徳川時代の末期になってもまだ石器時代のままのようであった地方のことを話された。それがどこか失念したが、明治にはいり、自由民権運動時代になってもまだ貨幣さえほとんど流通していなかった地方のあったことは、当時の新聞を見るとわかる。
貨幣なき地方の自由民権運動は部族社会のままの社会主義運動のような感じをうけるが、これがいわば「まだら社会」で、徳川時代の日本はまるで現在の全地球上の先進国・中進国・後進国が日本という四つの島に集約されているような状態だったわけである。~中略~
幕府の握っていた当時の先進国すなわち大坂や江戸は同時に購買力をもつ大消費地であった。
その大消費地へ向けた臨海工業地帯とはいえぬが、その母体となる臨海産業地帯とも言うべきものも出てきた。面白いのが四日市である。ここは江戸への灯油の積出し港で、江戸の需要の六割をまかなっていたと言われるが、この「油を扱いなれた港」に目をつけたのが海軍で、ここに海軍燃料廠ができ、ついでその跡に出光が進出した。
いわば四日市は徳川時代から一貫して「油」の町で、現在も、徳川時代から連綿とつづく近代化した「油屋」―というより大精油会社―がある。
こういう例は決して少なくない。そして日本海沿岸にも北前船の港として栄えた町は決して少なくないが、それは明治の発展へとつながらなかった。
政治と経済の中心は依然として東京と大阪で、しだいに東京の比重が重くなっていくが、鉄道と巨大な蒸気船の出現は物流の流れを変え、どうじに外国貿易という新しい要素が加わってきた。
明治になるとかつての臨海産業地帯が新しく臨海工業地帯へと脱皮するには鉄道が不可欠であり、後背地に鉄道をもち、これが経済の中心につながらない港はさびれていった。新潟には雪という障害のほかに上越国境には三国山脈という厚い壁が東京との間を遮断していた。

P54
「新幹線と高速道路ができたらオレは政治家をやめる」と彼(住人注;田中角栄)は言ったといわれるが、これは案外、彼の本音だったかもしれない。だが皮肉な言い方をすればこれもまた「新潟が江戸でありそれが東京となったら」角栄の出現を待たずに解決していたであろう。
 そうならなかった一因は皮肉にも新潟が穀倉だったからである。これが巨大な一藩となって統一された政治力をもち、上杉謙信のような人間が出現したら関東は北からの脅威にさらされる。家康はそれを忘れていなかったから、約三百万石はあったであろうといわれる信玄の支配地の中心を小藩に切りきざみ、その間に天領を入れてこの地の統一的な政治力をゼロにした。いわば江戸が恩恵を受けたとは逆に、この地は被害を受けたわけである。
家康は偉大な政治家かも知れぬが、彼の発想の基本は「徳川家の存続と権力維持」であり、それにとって危険なものは「潰すべき対象」であった。
新潟は幕府により政治的な被害を受けながら、明治には「朝敵連盟」の一員として扱われた。

P128
確かに道路の無雪化は産業基盤の基礎で、これが出来、同時に暖国との間の”風穴(住人注;交通インフラ?)”を大きくしなければ工場の誘致はできない。
それが出来なければ永久に農業県に甘んじなければならず、角栄のいう「二次産業の平準化」は達成できない。だが経済成長は無雪道路の建設が終わるまで待ってくれるわけではない。
こうなると雪の悩みのない暖国の方が早く成長するから雪寒国はまた取り残される。皮肉なことに無雪道路の建設中にも暖国への人口流出と出稼ぎがつづき、それがやっと完成したときには過疎による労働力不足のため工場が誘致できないという事態になる。
さらに皮肉なことに、産業基盤がどうやら整備されたと思われるころ、オイルショックが来て企業は新規の投資や事業の拡張を差し控える。そしてすでに成長が一段落した暖国主導の世論は、成長・開発はストップ、公害問題解決、環境保護、自然に還れとなり、これが全国一律に主張されて雪寒国の特殊性など全く認めようとしない、というよりマスコミにはその問題意識がはじめからなかったというべきであろう。


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