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政治家と政治屋 [社会]


 (住人注:為政者の)評価の第一の尺度は、つぎに引用したガエターノ・モスカからヒントを得たもので、これまでもしばしばこの尺度を使ってきた。
「最初一見すると奇妙に思えるのだが、一般に、人びとは、自分たちの支配者にたいして、もっとも高潔でもっともデリケートな道徳的資質をもち、公的利益のほうを多く考えて、自分の利益を考えないようにと主張するが、自分自身が問題となり、とくに自分が他人を追い越して最高の地位につこうとしているときには、今度は自分自身が、なんの苦痛もなく、支配者のまちがいのない道案内人となっている教えを守るのである。
  だから実際問題として、われわれが支配者に正当に要求できるのは、せいぜい、支配者たる彼が、自ら統治している社会の道徳の平均水準以下に落ちてほしくないこと、自分の利害をある程度まで公的利害と調和させてほしいこと、そして、あまりにも低劣で、あまりにも安っぽく、あまりにも反感を買うようなこと―要するに自分が生活している環境のなかでそれをおこなえばその人の地位が失われるようなこと―は何一つしてほしくないということだけである」
~中略~
そこでもう一つの第二の尺度も使わせていただく。この尺度については、前にも記したことがあるが、今回これを使うにあたって、もう一度簡単に説明させていただく。まずモスカの該当部分の引用からはじめよう。
「現在、ふつうの人びとも、政治家(ステイツマン)と政治屋(ポリティシャン)をしだいに区別するようになっている。
政治家とは、その知識の広さと洞察力の深さによって、自分が生きている社会の欲求をはっきりと正確に感じとり、できるだけ衝撃や苦痛を避けて、社会を到達すべき―あるいは少なくとも到達できる―目標に導く最善の手段を発見する方法を知っている人のことである。〈中略〉これに対して政治屋というのは、統治システムにおける最高の地位に達するのに必要な能力をもち、それを維持する仕方を心得ている人物のことである。
政治家として類いまれな能力と政治屋としての第二次的な能力とを兼ね備えている指導者をもつ民族は、きわめて幸運である。そして政治屋が政治家を手近において、その見解のおかげで利益を得ている場合も、その国民は、かなり幸運である」(二つの引用は共にガエターノ・モスカ「支配する階級」志水速雄訳より)
 このモスカの「政治家・政治屋」という分け方は、少し問題があると思う。
というのは「政略家(ポリティシャン)的要素のない政治家は(ステイツマン)は存在し得ないからである。
  そこで私は、政治家の要素はむしろ「政策家」と「政略家」に分けてみるべきではないかと思う。こうすれば問題の所在ははっきりしてくる。いわば純然たる政策家は、プランメーカー、もしくはブレーンにしかなり得ないから問題ないが、純然たる政略家は、「政治家」としてその位置を保持できるから問題を生ずる。いわば政策はゼロでも、「統治システムにおける最高の地位に達するのに必要な能力をもち、それを維持する仕方を心得ている人物」は、少なくとも「政界という名の業界」の中で一定の勢力を保持し、それによって有形・無形の各種の地位(ステイタス)を獲得して、影響力を行使しうるからである。
  そしてこの政略的能力は、前述のモスカの言葉を借りれば「支配者のまちがいのない道案内人となっている教えを守る」ことによって可能であろう。だがそれは、「もっとも高潔でもっともデリケートな道徳的資質をもち、公的利益のほうを多く考えて、自分の利益を考えない」という民衆の一般的要望から甚だ遠い存在であろう。

「御時世」の研究
山本 七平 (著)
文藝春秋 (1986/05)
P177



DSC_2535 (Small).JPG出雲大社

P203
小室直樹氏が指摘するように、戦後民主主義そのものが「角栄的要素」をもち、「角栄党」が必要な状態であるとすれば、政略家が政略家と自己規定して一定の限度を超えない限り、言い換えれば三木 武吉のように行動している限り、その存在をある程度は「必要悪」として認めた可能性はある。ではその一定の限度とは何なのか、ここで冒頭で引用したモスカの言葉を思い起そう。すなわち―
「われわれが支配者に正当に要求できるのは、せいぜい、支配者たる彼が、自ら統治している社会の道徳の平均水準以下に落ちてほしくないこと、自分の利害をある程度まで公的利害と調和させてほしいこと、そして、あまりにも低劣で、あまりにも安っぽく、あまりにも反感を買うようなこと―要するに自分が生活している環境の中でそれをおこなえばその人の地位が失われるようなこと―は何一つしてほしくないということでけである」

P206
 言うまでもなく、国会は、ある面ではさまざまな利益代表者の集会であり、ある政策を実施しようとすれば必ず抵抗に合う。だが、時には一部の抵抗を排除してもその政策を実施しなければならぬ場合が当然に生ずる。国民全体の利益は決して、個々の利益の算術的総計ではないからである。
そこで「政党が壊れた」とき、これを修理して機能させてその政策を実施させるのが「政略家」の任務であり、三木 武吉などはその修理屋をもって自認していた。







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