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中国には神はいない [国際社会]

P86
 黄河の水は、ゆたかな沃土(よくど)をその流域にもたらしてくれるが、いったん水が暴れだすと、人家や田畑を呑みこんでしまう。
 だが、この荒れ狂う黄河も、人間の力ではどうしようもなかったかといえば、砂漠のように処置なしというほどひどくはなかった。
なんとかすれば、水の害は防げたのである。人海戦術というか、人民を動員して堤防を築き、水路を補修さえすれば、あるていど水はなだめることができた。
 その自然が人間の力でどうにかなるものだったから、神様を頼らずに、人間の力を重んじるというふうになったのだろう。キリスト教のような神は、中国にいない。中国では神のかわりに、聖人というものを崇拝する。聖人とはなにか?
古代の聖王堯(ぎょう)・舜(しゅん)たちが崇拝の対象であるが、彼らは人間であり、しかも、おもに「治水」に成功した人たちなのだ。
 人間の力をもってすれば、どんなことでもできる。―この人間の力によせる信仰が、中国で人間至上主義をうんだ。
 この根から形式主義がうまれる。
 中国人は面子を重んじるといわれている。これは形式主義にほかならない。

P93
 中国の文芸の根はどこにあるのか?
 人間への訴え、人間にたいする説得、そして最後に人間への信頼である。はじめから終わりまで、「人間」につながる。
日本文学の水源は「万葉集」であるように、中国文学のそれは「詩経」である。この「詩経」は、古代のフォークソングのアンソロジー(詞華集(しかしゅう))のようなもので、西周(せいしゅう)時代から東周にかけて、すなわち、紀元前一一〇〇年から紀元前六〇〇年にかけて、中国各地の民謡をあつめ、孔子がそのなかから約三百編をセレクトしたものだ。~中略~
 この「詩経」の国風(こくふう)(諸国民謡)の注をつくった吉川幸次郎氏は、国風百六十篇のほとんど全部が誰かにむかっての呼びかけである、ときわめて明快に述べておられる。立派な君主をたたえる、あるいは暴君をそしる。あるいは恋人に呼びかける。・・・・・いろんなタイプはあるが、すべて人間への呼びかけであって、直接、神へ呼びかけて訴えるといったものは見当たらない。


日本人と中国人――〝同文同種〟と思いこむ危険
陳 舜臣 (著)
祥伝社 (2016/11/2)












DSC_2567 (Small).JPG出雲大社


タグ:陳 舜臣
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