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感情は忘れない [哲学]

 病棟の看護ステーションに入ると、忙しく働いている看護師や介護士たちに「お早うございます」とか「今日は」と挨拶します。患者一人一人に声をかけるのはいうまでもありません。
英語なら"How are you?"と相手の状態をたずねますが、「今日は」を英語にそのまま訳すと"Today is !"ということで、別に意味や情報はありません。
それでも「コンニチワ」は、一人であれ大勢であれ、そこにいる全員にわたしのある「善き意図」を伝えられる。大きいほがらかな声で挨拶し、返事が返ってくるとき、ある情動的コミュニケーションが成立したことを体感できるのです。
 こちらの「善意」を伝える配慮は、医学関係の学会では格別重要です。医者というのは、わたくしを含めて小児性格の者が少なからず居り、また発表者が研究成果に十全の自信を抱くことはまずありません。直截(ちょくせつ)な質問はしばしば悪意あるあげつらい、発表に対する攻撃と感じさせるので、質問するときは、まずは発表内容をほめます。
どんなにその内容に同意できずとも、ほめる。「先生のご発表ありがとうございました。非常に感銘を受けました」など、まるであいまいなものでかまいません。これはヒト音声的コミュニケーションと理解すべきです。
 ~中略~
いかに質問者の意見が正しく、発表者の方に誤りがあってもそうです。質問自体はしばらくすると忘れ去られても、「悪意ある」質問をしたという印象だけは、質問を受けた人に一生憶えられている。
痴呆状態にある人が、そばの人に厳しく訂正されるときに起こす情動反応といささかも変わりません。
 家庭では、音声コミュニケーションは空気や水のように大切です。
夫が毎日くりだす会社のグチを、毎日すべて聞いてあげて「理解」し慰められる伴侶は、まずいないでしょう。
たまならともかく、終始同じような愚痴を聞くのに疲れてしまい、「意気地がないのね。ウジウジしているからいけないのよ」と反発した場合の結末は、いうまでもありません。
ここで寛容なのは、断じて「理解する」ことではありません。むしろ積極的に理解はせず(右から左へ聞き流す、という形容もあります)、やさしい声音(音声)で、うなずいてあげる。これができないヒトは、ゲラダヒヒにとくと学ぶ必要があるでしょう。もちろん理解し、かつ傾聴できる人もいて、そのような方は、「ひたすら共感をもって聞くに徹する」を流儀とする心理療法家になる素質があります。

「痴呆老人」は何を見ているか
大井 玄 (著)
新潮社 (2008/01)
P61


「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書)

「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書)

  • 作者: 大井 玄
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2008/01/01
  • メディア: 新書

 






DSC_2774 (Small).JPG松江

P66
 かつてシャープだった父親の頭脳が衰えてきたのを、傍で見るのは辛いものです。少しでも衰えを遅らせようとアリセプト(アルツハイマー病患者の記憶保持作用があるとされる)を服用させたり、いろいろ教えこんだり(つまり情報を提供する)。
しかし孝行娘の努力は効果を表さないばかりか、父は迷惑そうな、ほっといてくれという態度をとり、娘は思わず声を荒げて「叱咤激励」する。認知能力の低下した人へのコミュニケーションは情動型で、という原則から気づかないうちに逸脱してしまうのです。
 老人施設やグループホームでの観察は、「認知能力が衰えた老人は敵と味方を峻別する」という経験則を導きだしました。偽会話を楽しむ「なじみの仲間」内でも、「そんなことあらへん。ほんまはこうよ」などと反対したらすぐ仲間はずれになります。
 しかし、わたしたちは情動的反発力がどんなに強いものであるかを意識していません。
自分は痴呆ではないと確信する人たちであっても、結局は、情動によって動かされている場合が多いことに気づかないのです。
 〇一年に起きた9・11事件の後、アメリカのブッシュ大統領は全世界に向かって、「我々の味方でない者は敵だ(You are either with us or against us)」と態度表明を迫りました。これは、パニックに陥ったときの認知症の老人の反応と全く同一です。
ドイツ、フランスなどEU諸国の主な反応は、「灰色の世界を白黒に分けようとする」カウボーイ外交への嘲笑でした。もちろん彼らは正しいのですが、ブッシュ氏らアメリカ人が受けたほどの衝撃、不安、恐怖、憤怒が入り混じった強い情動を経験していません。
「判断能力」を超えた強い不安、恐怖、屈辱、憤怒を感じたとき、見境なく白黒を決めようとする衝動が生ずるのは自然なことで、「痴呆」であれ「非痴呆」であれ、変わりません。
認知能力が低下している人では、問題に対する対応能力が減少している分、パニックが起こりやすいだけです。(もちろん「なじみの仲間」から離れて「敵対的関係」にある家族の許に帰った老人が示す夜間のせん妄は、9・11事件後にアメリカという超大国に生じたせん妄と幻覚、破壊行動に比べれば、容易に受容し得るたぐいの現象です)。


「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書)

「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書)

  • 作者: 大井 玄
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2008/01/01
  • メディア: 新書

 


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