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見れども見えず、ヒトは見たいものを見る [ものの見方、考え方]

 彼(住人注:生態学者ヤーコブ・フォン・ユクスキュル)は、この表題の現象を「探索像が知覚像を消してしまう」と表現しています。
ひらたく言えば、見ているものの代わりに、見たいと思っているものを見ているということ。
彼には、その個人的経験例がありました。
彼は友人の家にしばらく滞在していました。毎昼食時、陶器の水差しがテーブルの上に置かれていたが、ある日召使いが誤って割ってしまい、ガラスの水差しが代わりに置かれた。
彼は水差しを探したが、ガラスの水差しは目に入らない。友人に水はいつもの場所に置いてあると言われて、突然ガラスの水差しが目に入ったのです。
 これは俗に「見れども見えず」という現象ですが、何かものを見て、それと認知するためには、見る側の「意図するイメージ」と「見られるものの形」が一致したときに初めて可能であることを示唆しています。 意図するイメージとは、哲学者ブレンターノが言い出した「志向性」(intentionnality)と同義でしょう。

「痴呆老人」は何を見ているか
大井 玄 (著)
新潮社 (2008/01)
P83

DSC_2818 (Small).JPG須佐神社

P96
「外界で見るもの、聞くもの、触れるものが現実を構成している、とヒトは考えている。 だが、脳は、その知覚することを過去の経験に基づいて組み立てている」
 これは阿保(住人注;阿保順子)氏の「痴呆老人が創る世界」についての解説ではありません。ハーバード大学の神経生理・心理学教授のスティーブン・コスリンが、ふつうの人間の認知メカニズムについて最近述べたものです。
「知覚が期待によって左右されるという認識は、認知研究の基本である」
 これもユクスキュル(住人注:生態学者ヤーコブ・フォン・ユクスキュル)の発言ではありません。やはりオレゴン大学の神経学者マイケル・ポスナーのコメントです(註⑥)。
これらの言説は、両方ともアーラヤ識とマナ識の働きを思い出させます。
外界を認識するときは、今まで種子として薫習されてきた記憶と、それにも増して自身の抱く種々の煩悩に影響されざるを得ません。しかも、煩悩が働いているという心理的事実に、まったく気づかないという無明があります。
最前線の神経心理学が、古代に洞察された認識論の正当性を追認しているようにも見えます。
「ヒトは見たいものを見る」という現象は、神経生理学者と同時に、哲学者の一部もとり上げています。
たとえば、オートポイエーシス・システムについての議論がそうで、その構造と機能の論理は、神経システムをモデルにして組み立てられます。
~中略~
いとしい、恋しいと思う人の顔はいつでも見ていたいものです。今目の前に肉親や恋人がいなくとも、眼を閉じてただちに顔を思い浮かべることができます。わたしの意識を現している心的システムは外的刺激に対応して作動しているのではなく、みずからの産出的作動を反復しているのです。
 入力がなくとも作動が継続するということは、外部刺激に依らず、純然たる内的意向によってよって生じた感覚(幻覚)と区別がつかないことになります。
あるものを強く見たいと念ずれば、実際にそのものを見ることは可能である、とするならば以下の幻覚(幻視)の例も理解できるでしょう。


タグ:大井 玄
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