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どこから病気? [ものの見方、考え方]

 年齢に伴う機能低下や、はっきりした病気があっても、自分が家族や友人を含む広い意味での社会環境とうまくつながって生きている、という感覚があれば、その人は「健康」でありうる。
老年期はいわば長く延びたグレイゾーンであって、「病気」と思うと「病気」、「健康」と思うと「健康」といった心理現象が日常的におこります。
 ゆったりとした時間の流れる伝統的文化の社会では、機能低下をきたした高齢者に「健康感」を与える仕組みがあります。第三章でみた敬語の体系はそのひとつで、ジャワ、タイなど東南アジアの多くの文化において働きが認められました。社会的実績のある人に周囲は敬意を払いますが、認知能力の低下した老人に対しても敬意を払うというマナーは、その人が自分の人生は価値あるものだったと感ずる上で意味を持ちます。

「痴呆老人」は何を見ているか
大井 玄 (著)
新潮社 (2008/01)
P162

 

DSC_2824 (Small).JPG立久恵峡温泉

P163
 (住人注;被害妄想、夜間せん妄、幻覚、攻撃的人格変化といった)周辺症状の不在が認知能力の低下した人々での「適応」を示すとすると、高齢で脳の機能低下があっても、家族や地域の人々、自然などの「自分の環境」とうまく「つながり」ながら、不安などの精神的「苦痛」を感ぜずに生活をつづけているなら、機能低下は「老いの表現」と考えることができます。
 これまで見てきた定義によれば、病気とはあくまでも年齢に相応しない機能異常(亢進や低下)がある場合、さらに年齢に伴う(たとえば脳の)機能低下があると同時に「苦痛」が共存する状態です。
自分の置かれた環境とうまくつながることで苦痛が和らいだり無くなったりするとすれば、そんなつながりの有無が、病気の有無を決定するように見えます。

P167
 病気の定義の基本は「安楽」が失われることですから、今いる状態についての不安や不満などの明確な苦痛ともいえない苦痛があれば、病気の萌芽が生じたともいえます。
~中略~ かつて青年期の煩悶などは、人間的成長を遂げるために必要なステップと考えられていましたが、現在は精神的苦痛に価値を認めない傾向が強くなりました。とすれば、一番手っ取り早い対応はその苦痛を「病気化」することです。
 精神科の診断基準として使われるDMS(Diagnostic and Statistical Manual)では、「意欲がない」「眠れない」などの症状がある期間続くと、暫定的に「うつ」という診断が附けられます。借金に追われている、失恋した、酒がもとで会社をクビになった、同棲相手とうまくいっていない、という理由でも抗うつ剤がだされる。
しかし、これらは病気のための抑うつではないので、当然ながら薬は効きません。
こういう人たちは自己をコントロールする力が弱いため、眠れない状態が少しでもあると睡眠薬を欲しがり、「わたしはPTSD(心的外傷後ストレス障害)ですから診断書を書いてほしい」と要求します。
若い精神科医たちは何の抵抗もなく睡眠薬や抗うつ剤を出し、診断基準を片手に「これは何点ですからうつ」あるいは「あと症状が三日つづけば立派な大うつ病」となり、やがて薬が効かず「この症例は治療抵抗性です」となります。
 人間は幾晩もの眠れない夜を耐えて成長する、というかつては当たり前だった解釈がもう通じないのです。生活において遭遇する不愉快な出来事、苦痛を伴う体験の多くは、心的外傷と見なされるようになります。

P169
 人は学ぶことで新しい知識の領域が開け、技能を身につけ、人々と知り合います。学ぶという「経験」は、その人とその人が置かれた世界とのつながりを強化します。どの経験にも何がしかの学びと苦痛と楽しさの要素が含まれ、その経験を「学び」と認識するか、あるいは「楽しさ」、「苦痛」と認識するか、その度合いによって経験自体の印象も、もたらされる結果も大きく違ってくるでしょう。
~中略~
 歴史的に見て、人は生きていくために、いつも額に汗して働いてきました。働くという「経験」には、学び、楽しみ、苦痛、という要素が、常に分かちがたく含まれます。
「生きていく」という営みは、自分と世界をつなげる作業ですが、つながるという感覚は安心を与えると同時に、束縛されているという感覚でもある。「人は自由であるべきだ」というスローガンには、束縛に対する強い嫌悪感が読みとれます。

P007
 岩波書店のまわしものではないのですが、学生にはいつも、わからないことがあれば、とりあえず「広辞苑」を引いてみなさい、と指導しています。
あらためて「病気」をひいてみると「①生物の全身または一部分に生理状態の異常を来し、正常の機能が営めず、また諸種の苦痛を訴える現象。やまい。疾病。②比喩的に、悪いくせ」とあります。
~中略~
 ということで、ウィキペディアをひいてみました。
「病気は曖昧な概念であり、何を病気とし、何を病気にしないかについては、さまざまな見解があり、政治的・倫理的な問題も絡めた議論が存在している」と、広辞苑にくらべると、ずいぶんと納得のいく説明が書いてあります。
 病気というものを客観的に定義するには、広辞苑の説明にあるように、どうしても、正常から逸脱した「異常」である、ということを入れる必要がでてきます。
どう考えても、「正常だけれど病気です」、といわれても受け入れられないですよね。
 では、どこまでが正常でどこからが異常かというと、これがまた難しい。
昔は、検査値などでも「正常値」という言葉が使われましたが、今は、何をもって「正常」というかが定義しにくいということで、「基準値」という言葉が使われるようになっています。これだけでも、正常というものの難しさがわかります。

P011
ほとんどの人は、病気、というと、何らかのイメージを持っていますよね。だから、ちょっと調子が悪いと、自分で、あ、病気になった、とわかる訳です。
でも、自分で病気であると思って病院へ行ったのに、何もありませんと言われてしまうと、たとえ不本意であったとしても、病気ではなくて正常なのだと納得せざるをえないのです。
 一方で、初期がんなどでは、自分では病気と思っていなくても、医師に病気である、と診断されたら、病気として治療を開始することになります。なので、いずれの場合にしても、病気というものは、医師が決定するものといえそうです。

(あまり)病気をしない暮らし
仲野徹 (著)
晶文社 (2018/12/6)


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