一向宗 [雑学]
一向宗というのは、本願寺教団のことである。鎌倉期に親鸞がひらいた浄土真宗というのは、親鸞自身が「自分はひとりの弟子をもっていない」といったように、教団形成の意思はなかった。
親鸞はなるほど浄土真宗の立宗を宣言してはいるが、この場合の宗は多分に思想体系を指し、教団という意味はわずかしかなさそうに思う。
この親鸞の子孫は、京都で親鸞の墓をまもっていた。墓守のことを留守職(るすしき)といった。
この留守職の家系から蓮如が出るにおよび、室町の乱世のなかで爆発的に教勢が伸び、やがて西日本において人口の一割以上の者がその信徒になるという盛況を示した。
室町期は、農業生産高もあがった。諸国で開墾地主がふえ、それらが小作人という戦闘力を隷属させ、従来の守護・地頭という公式な支配体系を軽んずるようになった。そういう新興勢力が村々で孤立していればそれぞれ小粒だが、横に連繋すれば旧勢力からの自衛にもなる。その横に連繋する機能として、一向宗が大いに社会的効用をはたした。たとえば加賀ではそのような新興地主群が、
「守護(室町の正規大名)に租税をおさめるのはばからしい。それよりも一向宗におさめるほうがいい」
として、ついには守護大名の富樫氏をたおし、加賀一国をそのような地侍(じざむらい)どもの協議制のもとで自治をおこなうことが二十数年もつづいた。加賀一揆がそれである。紀州のいまの和歌山市付近の雑賀の土地もそうであった。
一向宗は地侍連合の接着材として効用し、そういう全国組織の中心的な機関として本願寺が存在した。
街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)
P48
P50
一向宗の側からいえば、新興の地侍階級を掌握したことで教勢が伸びたといえる。かれらは家来や小作人を持っていたため、新興の地侍一人が入信すれば一統ぐるみが一向宗になるわけであり、地侍の場合からいえば他から攻められる場合、一向宗の組織がまもってくれることになるのである。
このため、地侍の次男坊あたりが、一向宗の僧になった。寺を実家でたててもらい、家来たちが檀徒になる。
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